無と有のあいだ

 今週の月曜日は、博士論文の主査をしてくださった森秀樹先生の退職記念講義を拝聴してきました。森先生は老荘思想がご専門の中国哲学者なので、今回の講義も老子の思想における「無」と「有」という二つの概念の扱いを、『老子』のテクストから考察するという、なかなかハードなもの。

 森先生はまず、ヨーロッパの哲学が伝統的に「無」を「有ではない状態=非有」として定義してきたことを確認された後に、白川静のような漢字の成り立ちから中国語の語彙の意味を考える手法と、藤堂明保による音韻論的な中国語の語彙の意味論の両方の議論を概観されました。

 私は藤堂による音韻論からの意味分析という方法を知らなかったので、かなり新鮮でしたね。森先生は藤堂のやり方で全てを明らかにすることは難しいとしても、そこには注目に値するものがあるとして、「無」が含まれる音韻グループの現象学的な傾向は「もやもやとして輪郭ははっきりしないけれども、そこに何かがあると予感させるようなもの」であろうと解釈します。

 また「有」については、「本来あり得ないものが唐突に現れた状態」と解釈します。面白いのはここからで、森先生は『老子』のテクストから有と無について論じている箇所を順に確認し、おそらく老子はものごとを「突然出現して次第に繁茂し、やがて絶頂を越えて衰えていって無に還っていくプロセス」として把握していたのではないかと指摘されました。

 普段の自分の講義ではカネの話ばかりしている私ですが、実は博士課程ではこういう議論をず~っとやってたんですよ。そんでもって、今でもこういう議論は大好きです。しかしながら、社会学部という場ではちょっとこれはやれない。これは文学部だからこそやれる議論です。

 どうですか、皆さん。こんな空疎な議論ばかりしているなら文学部なんか要らないと思いますか? 私の考えは逆です。商売にしても行政にしても教育にしても、根本的なところには確かな哲学が本来無ければいけません。その哲学を守り、あるいは深めるのが文学部です。世の中で、こうしたことを大の大人たちが本気になって議論し、アタマのてっぺんから湯気が出るまで考え続けられる場というのは今や文学部以外に存在しません。だからこそ素晴らしい。パラダイスです。しかもこういう学問は自然科学の基礎研究と違ってほとんどお金がかからない。

 その文学部はここ20年の間、衰退縮小の一途を辿っておりますが、やはり無くしてしまっては絶対にいけないものだと改めて痛感しましたね。

 森先生、お疲れ様でした。