「多文化の世界 <マイノリティ文化の抑圧・復興・贈与>」の、シラバスより若干詳しい解説

 この講義では、複数の文化が接触し、あるいは混在しているような状況での人々の振るまいを、幾つか紹介していきます。

 そうした状況の多くは多数派と少数派の考え方や利害がぶつかり合うような場ですし、そのような場において教養人は少数派の立場に立つことが常に適切であるという考え方がこれまで支配的でした。しばらく前に亡くなったエドワード・サイードさんという非常に有名な文学研究者もそうでしたし、村上春樹さんが先日、イスラエルでされたスピーチでも、そういった考えが表明されておりました。

 しかし、私はそのような考え方「だけが正しい」という風潮には疑問を持っています。もちろんサイードさんも村上さんも立派な方ですし、そういった考え方で活動されたこと、活動しておられることの正当性を否定はいたしません。そうした方々だって世の中には必要です。ですが、考えてもみてください。そもそも最初から「少数者は保護すべきだ」という結論が出ていたら、私たちは少数者について何も考える必要がありません。ところが、現実には何も考えずに生きていると人間の頭は悪くなっていきます。これは大変な弊害です。

 「少数者は保護すべきだ」という主張を取り敢えずは是としてみましょう。そもそも自分たちが何故、「少数者」を保護しているのか? その目的は少数者を保護することそのものなのか、それともそれ以外の目的があってやっていることなのか? それ以外の目的があるとしたら、以前に決定した「少数者は保護する」という方針は相変わらず目的に対して最善であり続けているのか? そういったことを常に考えながらやっているのと、何も考えずに惰性でやっているのとでは、何かを目指して「少数者を保護」しているとしても、その成果にはずいぶんな違いが出てくるはずです。何故ならば、社会がその存続の為に使えるお金には限度があるからです。

 無尽蔵に資金があるならば、何だって可能です。全ての少数派の為に、それぞれの言語で学べる教育機関を整備し、それぞれの言語を母語としても何ら不自由が無い社会生活が送れるよう、24時間完全対応の無料通訳者・翻訳者を配備することも出来ます。ですが、無尽蔵に資金がある社会などというものはまず滅多にありません。そんなものを前提とした議論には意味が無いのです。お金は有限です。有限な資金をいかに効率よく使って、誰もが満足出来るわけではないにせよ、かなりの数の人が何とか我慢出来る状態を実現させる。これが現実の世界での私たちの目標になりますし、その目標を実現させる為には、徹底的に使い込まれた頼りがいのある頭が必要です。

「今の日本では、××の人たちの人権は十分に保障されていない。こんな事例もあるし、こんな事例もある。国連で決まった人権条約の文言に照らしても、このような状況を放置していることはゆるされない。だから一刻も早く、こうした状況を無くさなければならない。」

 こういう議論をすることは簡単です。定型の文章に何か具体的な事例を放り込んでいけば、皆さんでも簡単にそれらしい議論をしてみせることが出来ます。また、言挙げする事例の数を増やせば、いくらでも話を長く出来ます。

 ですが、こうした議論は問題提起として最初に1回だけ、簡潔にやれば良いたぐいのものです。大事なのはこの問題提起の後。「ならば何をどうしたら良いのか?」「その為にはどんな人材がどれだけ必要なのか?」「その人材を育成するのにどれだけのお金と時間が必要なのか?」「そうやって構築したシステムを運営し続けるランニングコストは1年に何億円になるのか?」「それだけの資金をどうやって調達するのか?」「そのようなシステムを構築することについてのステークホルダー間の合意形成は可能なのか?」といった具体的な問題を考えることです。そうした議論を欠いた問題提起には殆ど価値が無い、と私個人は考えています。

 少し具体的な例を挙げましょうか。例えばここに、ある少数派の言語を母語とする人がいます。この人が医療機関にかかる際に、その母語を理解出来る医師や看護師が居ないとしたならば、そしてその言語を母語とする人が日本国内に数万人程度は居たならば、その方々が医療機関にかかる際に無料で通訳者を利用することが出来るようにしておくという合意形成は、比較的成立させやすいでしょう。

 では、その方々が「私たちの言葉には文字が無いが、文字による情報発信もまた私たちの権利として保障されるべきである。日本語の話者たちは自分たちの母語で大量の情報発信をしているが、私たちはそうした手段を持たない為に、日本という国の中で不利な状況に置かれている。そこで、私たちがブログを書いたりミクシィに書き込んだりする際にも、無料で通訳者を利用出来るようにしたい。」と主張したらどうでしょうか? それはもっともだから、その為に税金が少し高くなっても良いと思う人も居るでしょうが、ちょっとそれは図に乗りすぎじゃないですかと感じる人も出てくるかもしれません。この問題についての合意形成は、おそらく医療機関向け通訳者についての合意形成よりも難しいでしょう。

 以上でわかるように、少数派の権利を尊重し保障するといっても、限られた資金を前提とするならば、どこまでが保障されるべき権利であり、どこから先は自助努力に期待すべきなのかという点で、どうしても議論が発生するのです。では、その議論は誰がするのか? 私たちです。あなたも私も、悩みながら自分なりの解決案を持たねばなりません。それらをお互いに見せ合って妥協点を探りながら、合意形成をしていくのが、民主主義だと私は考えています。

 もちろん、別の意見もあることでしょう。とにかく議会や行政に片っ端から要求をぶつけていくのが市民の役割であり、細かい制度設計や予算の割り振りは専門家が考えれば良いということをおっしゃられる方だっています。私の住んでいる自治体でも、年間の一般会計予算が全部で250億円なのに、40億とか50億円もかかるような政策の実現を要求して、そのお金はどこから調達するのですかと質問すると「それは市が考えることで、我々市民が考えることではない」と怒り出す人が少なからずいます。あるいは、「そもそもこの施策は~」と、分かり切った理念の解説を延々と展開してみせて、結局どこからその資金を捻出するのかという提案はしないという人もいます。私が訊きたいのは、その素敵な理念の入念な解説ではなくて、それを現実のものにするためにどこからどうやって莫大な資金を引っ張ってくるつもりなのかということなのですが。

 それも確かに一つのスタイルです。が、そういうスタイルを古いと感じる人が増えていることも事実ですし、皆さんがその種の、要求を突きつけるだけの市民以外の存在に将来なっていくとしたら(皆さんが公務員や議員になって政策立案に関わることもあるかもしれませんし、NPOや社会的企業という形で社会問題の解決に取り組むようになるかもしれません)、具体的な議論の出来る人間であることが求められるでしょう。

 私自身、行政との協働の経験も若干ありますけれども、そういった実務の場では予算やスケジュールの枠ががっちり決まっていますから、その枠組みの中で何を諦めて何を残していくのかというところから出発するのです。理念論などをいじくり回している暇はありませんし、公務員である相手の立場を最大限尊重していかなければ良い結果は生まれません。予算、スケジュール、担当者の立場という制約の中で、どれだけ面白い提案を出来るかが勝負です。思いついた要求を端から順に行政に突き付けていく行為に創造性は不要ですが、より具体的かつ現実的な案を行政に提案して行政の力を最大限に引きだそうとするならば、私たちはボンクラのままではいられないのです。