ラエ・オ・ケアライカヒキの石

 自然科学の世界では最も権威がある雑誌の一つ、アメリカの「サイエンス」誌に重要な論文が掲載されました。タイトルは「Stone Adze Compositions and the Extent of Ancient Polynesian Voyaging and Trade」で、書いたのはケネス・コラーソンとマーシャル・ワイスラーという研究者です。お二人はオーストラリアのクイーンズランド大学の方。

 さて、この方々は以前からポリネシアの石の研究をしておられたのですが、今回の研究はツアモツ諸島(ハワイとタヒチの間にある細長い群島で、ハワイから航海カヌーでタヒチを目指す場合、最初のランドフォールは必ずここになります)で発見された石斧の石材の分析。どこの石で作ったかという話ですね。

 それで、資料番号C7727という石斧の石材を分析したところ、何とハワイ諸島産だったと。

 実はですね、ハワイ諸島にタヒチから人間が来ていたのは既に動かない事実なのですが、逆にハワイ諸島からタヒチ方向に人間が戻っていた物的証拠は無かったんですよ、これまで。だから、もしかしたらタヒチからハワイへの植民はされたけれども、一度ハワイに行ったらもう戻れない片道切符関係だったという可能性も潰しきれなかった。すなわち、今回の発見、この論文でハワイとタヒチの間で人間の交流が相互にあったことが確定されたわけです。

 もう一つ、この石はハヴァイイト(hawaiite)と呼ばれる火山岩なんですが、その採取地として最も有力なのが、何とカホオラヴェ島の西岸、ラエ・オ・ケアライカヒキと呼ばれるエリア周辺なのだそうです。

 何が「何と」なのか一発で解ったあなたは、かなりヤバいです。病膏肓に入るというやつです。

 順に説明しましょう。1977年、ナイノア氏が初めてホクレアの航法を担当した航海は「ケアライカヒキ・プロジェクト」でした。すなわちマウイ島とカホオラヴェ島の間にあるケアライカヒキ(タヒチへの途)海峡から航海カヌーを出発させて、タヒチへの航路に乗れるか、つまりハワイ諸島より東に出られるかという実験です。何故こういうことをしたのかというと、ハワイに伝わる伝説によれば、古代にはこのケアライカヒキ海峡からタヒチに向かう航海カヌーが出航していたとされるから。

 その後、色々な研究が進み、どうもこのカホオラヴェ島はハワイ諸島の航法師たちにとって重要な場所であったらしいとなりました。ですからマウ老師もハワイの弟子たちに、これから大航海に出かける前には必ずカホオラヴェ島で祖先の航法師たちへの祈りを捧げるようにという訓示をされた。今年1月のホクレアとアリンガノ・マイス出航の際も、出来れば彼らはカホオラヴェ島に立ち寄ろうとしていた、というのは「ホクレア号航海ブログ」にありましたね。

 さて、今回の発見で、実際にカホオラヴェ島の航海カヌーの出航地点と目されている「ラエ・オ・ケアライカヒキ」周辺の石材がツアモツ諸島から出た。ということは? 実際にタヒチに向かう古代ハワイの航海カヌーがラエ・オ・ケアライカヒキから出航してケアライカヒキ海峡を抜け、ツアモツ諸島まで来ていたことがほぼ確実になったってことです。ツアモツ諸島からタヒチは目と鼻の先。

 早速、ベン・フィニー先生もサイエンス誌にこの発見の価値を説明するレビューを寄せておられます。

 論文のアブストラクト(概要)はこちら。フリーダウンロードではないので、どこかの大学図書館でコピーするしかないですが。
http://www.sciencemag.org/cgi/content/abstract/sci;317/5846/1907