石川直樹『CORONA』追記(長文だけど)

 今日、石川直樹さんからメールがあって、新作『CORONA』についての裏話みたいなものを二つほど教えていただきました。

 やはりこの作品は色々な意味で石川さんのキャリアの中でもターニングポイントになりそうですね。玄人筋からの評価も非常に高いそうですし、木村伊兵衛賞、今度こそいったかなという気がします。それを壁と呼んで良いのかどうかは微妙ですが、取るのと取らないのとでは、そりゃ取れるに越したことないですから。

 作品の中でのホクレアの位置づけ、意味合いについても「実は・・・・」という話を教えてくださったんですが、やはり作品全体の中で、とても大きな意味を与えられていることがわかりました。

 私は石川さんへの返信の中で、それを西洋クラシックの構成に喩えたのですが、まずこの『CORONA』はワーグナーやマーラーなど後期ロマン派の大規模な交響曲のようなものだというのが私の考えです。交響詩と言う方が近いかもしれません。いずれにしても、第一主題はホクレア。そこからどんどんモチーフが変形され、付け加えられていって、壮大な作品世界を構築します。ポリネシアの島々で石川さんがプラウベル・マキナやそれ以前の愛機ペンタックス67、あるいはもっと前、旅を始めた頃の愛機だったEOS1Nで記録してきた数々の光景、島々の光のいわば破片の中から幻の大陸が姿を現すのです。そのとき、全ての始まりだった第一主題すなわちホクレアは、無数の光景の断片からなる巨大な渦の中に浮かぶ一艘のカヌーにしか見えなくなっています。

 ですが、実は違う。

 後ろの方に見える摩天楼から考えて、もしかしたらそうなんじゃないかと思っていたんですが、当たりでした。

 この写真集の表紙に使われている、海で泳ぐ子供たち。あれはホクレアの船上からハワイの海に飛び込んでいった子供たちなのです。ポリネシアという巨大な海洋世界が東南アジアの海から東に向かって漕ぎ出していったラピタ人とその子孫たちによって、人の住む場所へと変わっていった。その失われた歴史を科学的事実として人類史の中に刻印したFRPの双胴船の上から、母なるポリネシアの海へと飛び込んでいく現代の子供たち。絵的にはもっともっと強烈なカットが数あるなかで、敢えてこの写真をそっと表紙に選んだ石川さんの想い。

 日本の写真界の人で、この写真集の深さとか重さをきちんと読み解ける人がどれだけおられるものか、私にはわかりません。でも、多分居ないでしょう。1950年代に始まるリモート・オセアニアの航海文化の探求と復興の壮大な群像劇を踏まえて石川さんは作品を構成しているわけですが、これは単に「ホクレア」を知っている程度の知識とはレベルが全然違いますからね。だから、私が選ぶなら文句無しに2010年のベスト、それはもうライアン・マッギンレイの「Life Adjustment Center」とか「Everybody Knows This is Nowhere」と較べてもこっちが大事だと即答しますが、そこまでマニアックに読み解ける人がなにしろ業界にいらっしゃらないですから・・・・・。

 でも、これは木村伊兵衛賞取って欲しいなあ。いや、取る。今まで最終選考で落とされてきたのも、この作品で取るためだったんですよ。間違いない。