そもそもホクレア号が船出したのは、古代ポリネシア人が漂流ではなく計画的に東ポリネシア*1(タヒチ、マルケサス、ハワイ、ラパ・ヌイ、アオテアロア)に移動していった事を示す為でした。
その淵源には、ヘイエルダールによる南米ルート説の解体という大目標も当然あった。そしてそれは成功しました。
しか~し。人間がどっから渡ってきたのかは良いとして、この地域には、もう一つ、忘れてはいかん要素があります。サツマイモです。サツマイモは南米原産であり、かつヨーロッパ人の来航以前にはポリネシア各地で栽培されていました。
じゃあ、それはどうやって南米からポリネシアに伝播したのか?
謎なんです。謎。いまだによくわかっておりません。いくつかの仮説は立っていますけどね。
・たまたま漂流しちゃった説
どうしても最初に思いつくのはこれですね。たまたま南米から筏かなんかで漂流した奴がたまたまサツマイモを持っていたと。現に、ポリネシアで最初にサツマイモを作り始めたのはマルケサスだった事がわかっています。なんとマルケサスですよお客さん。ハワイから南に真っ直ぐ下ったあたりです。ラパ・ヌイなんかより遙かに西にある。時期は300年前後。つまりマルケサスに古代ポリネシア人が到達した直後くらい。
おいおい、漂着するなら一番近いラパ・ヌイじゃないのかと思うでしょ。しかしラパ・ヌイというのは異常に行きづらい場所なんですよ。ポリネシアの他の土地はだいたいが島々がダーっと連なっている。だからその海域に入ればどこかの島は見える。ところがラパ・ヌイだけは、本当にあの小さな島だけがポツンと一つ落ちているだけ。ハワイやタヒチのように高い山も無い。無茶苦茶見つけにくいんです。かのナイノア・トンプソン師でさえあやうく見過ごしかけた*2くらいでね。たまたまサツマイモを沢山積んだ筏が、たまたまラパ・ヌイに漂着するなんてのは、確率としてあまりにも低すぎる。それよりはマルケサスまで流されちゃう方が余程あり得ます。マルケサスに筏が流れ着いた時に人間が生きていたかどうかは非常に疑わしいですが、サツマイモは無事だったでしょう。
ただ、この説にも弱点がある。まずはわざわざそんな大量のサツマイモを都合良く積んだ筏が何の用があって沖合をウロチョロするのか。もう一つ、こっちがさらに大事なんですが、南米大陸西岸の海流と風というのは、沖の方に向かっていないんです。チリの海岸におもちゃのアヒルを浮かべても西へは向かわない。ヘイエルダールのコン・ティキ号だって沖合100kmまでチリ海軍の軍艦に曳航してもらったくらい。
・ポリネシア人による移植説
マルケサスと南米までは片道8000kmありますし、概ね偏西風が吹き付けて来ますから、なかなか東へは向かえない。しかし季節によっては偏西風が止んで東向きの風が吹く時期があります。ホクレア号も利用したこの風を使って南米まで一気に航海し、サツマイモを持ち帰ったんじゃないかという説もあります。8000kmというのは、かのホクレア号でさえやったことのない超長距離航海(ハワイ・タヒチ間3000kmでさえ1ヶ月かかるんですが)で、それだけの期間、順風で走れるのかという所が気になりますが、少なくとも南米まで行ってしまえば、ポリネシアの航海技術なら南米を離岸して偏西風に乗るのは簡単でしょうし、そこから先は特急列車みたいにしてマルケサスまで戻れますね。
ポリネシア人がラパ・ヌイまで行ってその先を目指さなかったというのは、彼らの精神構造からして考えづらいですから、もしかしたら行きはラパ・ヌイ経由、帰りは一気にマルケサスというやり方だったかもしれませんね。
・謎の中国人説
以前にも少し紹介した、ギャヴィン・メンジーズの『1421:中国が新大陸を発見した年』(http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4789721663)に出てくる話で、鄭和の大艦隊の一部が喜望峰を越えてアメリカ大陸に渡り、さらにポリネシア経由で中国に戻った際に、南米からポリネシアに移植したという説です。残念ながらこれはサツマイモの定着時期と全く矛盾しますので、無理筋でしょう。
そうそう、この本は今丁度手元に来ているので、近いうちに紹介しますね。
*1 ポリネシアを東西に分ける場合、地図上の東と西ではなく、文化の伝播を西から東と見立てて考えます。現在主流の説では、ニューギニアやソロモン諸島を通過した人類がフィジー、トンガを経由してタヒチあるいはマルケサスに到達し、そこからラパ・ヌイやハワイやアオテアロアに移動したと考えられています。このうちフィジーやトンガまではポリネシア文化以前の要素(ラピタ土器)が伝わっていましたが、その先のタヒチあるいはマルケサスからは、完全にラピタ文化とは別の段階に入りました。そこでフィジーとトンガまでを西ポリネシア、その後の経路を東ポリネシアと呼ぶわけです。
*2 以下、本体ウェブサイトより転載
Rapa Nui(ラパ・ヌイ:地名)
チリ領で、イースター島とも呼ばれる。ポリネシア・トライアングルの最東端。1999年、ホクレアは最後に残った目的地ラパ・ヌイを目指す「Closing the Triangle」プロジェクトを実行。夏の間にマンガレイバ島まで南下したホクレアは、そこで風待ちに入り、ついに西向きの向かい風が止んだ真冬の海へと出航していった。しかしラパ・ヌイ付近まで来た所で強い雨風と曇天に苦しめられ、ナイノアは星を見る事が出来なくなった。最後の2日間は波のうねりだけを頼りにラパ・ヌイを目指し、出航から17日目、ついにホクレアはラパ・ヌイを発見した。ラパ・ヌイに上陸したクルーが「我々はポリネシア・トライアングルを閉じる為にやって来ました。」と言うと、一人の女性が微笑んでこう応えた。「いいえ、あなた方は、ポリネシア・トライアングルを我々に向けて開いてくれたのです。」
この航海に同行したジャーナリストのサム・ロウは、ホクレアがラパ・ヌイを発見した時のことを次のように記している。
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まもなくクルー全員がホクレアのデッキに集まり、左舷の遙か彼方に見えるラパ・ヌイの島影を見つめた。ナイノアはマストに上り、長い間その島影を見つめていた。彼が降りてきた時、彼の頬は涙で濡れていた。朝食が終わると、彼は我々を集めた。我々は丸くなり、彼の言葉を待った。
「これで私たちの航海は完了しました。個人的には、なにかぽっかりと自分の中に穴が空いたような気分ですが。しかし私たちはこの成果を誇るべきです。ついに私たちは、ポリネシアン・トライアングルの最後の角までやって来たのです。ですが、この成果は私たちクルーだけのものではありません。この25年間、この船に心、そして魂を捧げた人々全てのものです。」(Sam Low "Gift of the Wind: Aboard Hokulea on her miraculous journey to Rapa Nui", Hana Hou! : The Magazine of Hawaiian Airlines, Vol.3, No.1, 2000, p38)
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http://www.geocities.jp/hokulea2006/atz.html