横浜シンポジウム報告・拓海広志さん

 すいぶんと放置しております。面目無い。やっと梅雨も明けたみたいで暑いっすね。夏休みが欲しいです。が、無理です(牛久市職員の皆さんには心から同情致します)。「アラトリステ」5巻。これはどう見ても9月までやってるでしょう。「アラトリステ」が終わる頃には立教での非常勤講師が始まり・・・・。

 せめてブログから逃避しようと思って逃避してました。国泰寺高校のドキュメンタリーは残念ながら選を逃したようです。逃避中だったのでお知らせ出来ませんでした。ご免なさい。

 さて、横浜シンポジウム報告を続けます。拓海広志さんです。拓海さんには1989年から1994年にかけて拓海さんたちが関わった、ヤップ島での石貨航海復活プロジェクトについてご紹介いただきました。

 プロジェクトの概要についてはこちらなどを読んでいただきたいのですが
http://www.world-reader.ne.jp/heart-jp-wo/takumi-030109.html
http://blogs.yahoo.co.jp/hokulea2006/40386672.html

 私が拓海さんのお話が是非とも必要だと思ったのは、実はヤップからパラオまで航海カヌーで行って石貨を作って帰ってきたというエピソードそのものを知ってもらおうということではありませんでした。むしろその裏にあった色々な実務を知っていただくことで、こうしたプロジェクトが色々な意味で夢物語ではなく現実世界での実践であるということを実感して欲しい。そこがポイントでした。

 以下に当日の拓海さんのお話の中で、私が重要だと思ったポイントをご紹介します。

●何故外部の人間が必要だったか?

 1987年のペサウの航海はヤップ本島の中でもさほど序列が上ではない故ガアヤン酋長や故タマグヨロン酋長の個人的事業として行われたものだったが、この時に日本のテレビ局に大きく取り上げられた為、ガアヤン酋長やタマグヨロン酋長への嫉妬がヤップ本島内に蔓延してしまった。そこでガアヤン酋長はヤップ本島民の意思統一には、酋長間の調整役としてヤップの人間関係の外部に居る人材(=拓海さん)が不可欠だと考えた。

●事業の主体はヤップ人

 当時、拓海さんたちのグループ「アルバトロス・クラブ」はいくつかの助成金公募に応募していた。その中の一つはC・W・ニコル氏らの強い推しもあって最後まで残っていたが、具体的な事業計画の提出を求められたので結局断念せざるを得なかった。というのは、このプロジェクトは航海カヌーが出来てそれで航海を成功させるということが目的なのではなく、プロジェクトを進めていくことでヤップ社会を健康にしようというものであった為、航海カヌーが出来ない可能性もあったし、出来たとしても実際の航海がいつになるかは判らなかったから。

※これについて拓海さんは「アルバトロス・クラブが事業の主体になってヤップ人を雇うのならば話は簡単であったが、それはプロジェクトの主旨から外れるのでしなかった」とも言っておられました。

●ビジネス感覚の必要性

 最終的には1000万円以上の資金が日本からヤップ本島に流れることになった。ここで問題なのは、ヤップ側の人間がそれらの金を私的に流用してしまわないかということだった。この時にヤップ側の会計担当として選ばれたジョー・タマグ氏は当時のヤップ人で唯一、実業家として成功している人間で、資金管理が可能な(おそらくは)唯一の人間でもあった。また拓海さんはタマグ氏に対し、どんな安いものでも領収書を取っておいて後で見せるように言い、タマグさんも(最初は渋っていたものの)これを了承した。

※拓海さん曰く、タマグ氏が最大の功労者であることは疑い無いそうです。この時までパラオとヤップの関係は長年に渡って悪く、石貨航海についてもパラオ側は受け入れを拒否する構えだったそうですが、タマグ氏がヤップ本島の酋長を代表してパラオに行って交渉した結果、最終的にはパラオ側の全面協力を取り付けて帰って来られたのだそうです。この時のタマグ氏の活躍が無ければ、先日のホクレアとアリンガノ・マイスの航海でパラオの大統領がヤップから船団に乗り込むなんてことも無かったのではないかと私は推測します。

●粋な援助も

当時プロジェクトに関わった方々の大半が20代半ばのサラリーマンだったが、ある会社の社長は「自分の会社の社員が会社の備品を使うこと」「就業中にプロジェクトの仕事をすること」を許可した。

※仕事中にサーフィンをしに行くことが許可されているパタゴニア社を彷彿とさせる、なかなか粋な援助のしかたです。

●ヤップ本島内の意思統一に3年

意思統一に徹底的に時間をかけたので、3年間も必要だった。航海カヌー「ムソウマル」の建造には1年半、実際の航海は半年。船長は最初は故レパングラング師を考えていたが、最終的にはマウ師が船長を務めることになった。

 実は先日、拓海さんの他にもこのプロジェクトに関わった方、そして故大内青琥画伯のご遺族など、ヤップに縁のある方々の飲み会に誘っていただきました。そこでも話は石貨航海のことになったのですが、ヤップでも日本でもとにかく人間関係が大変であったというのが印象的でした。それはプロジェクト内の人間関係ではなく、いわゆる「カンケーシャ」ですね。ヤップ島で何かやるなら俺に挨拶しろとか、俺を通さないとマズいよ、とか。

 ・・・・人間って変わらないものなんだなあと。