文政年間のパラオ漂流

 船団がパラオに到着したことですし、ここは一つ日本人とパラオの馴れ初めを紹介することにしましょう。

 史料から確認出来る限りにおいて、最初にミクロネシア海域の有人島に上陸した日本列島人は岩手の出身でした。文政3年(1820)11月26日、奥州閉伊郡船越浦田野村(現在の下閉伊郡山田町)の黒沢屋六之助という人が所有していた「神社丸」という650石積み(800石積み説もあり)の船が江戸に向かったのですが、12月6日に房総半島沖で遭難。例によって帆柱を切り倒してあてどもなく漂流していった所、翌年の1月20日にパラオに漂着したという話です。

 パラオに漂着した際に船が壊れて船員12人のうち2人が死亡。生き残った10人は言葉は通じないながらもパラオの人々に保護されて数年をパラオで過ごしました。この間、2人が病死。その後、たまたま立ち寄ったタイの船に便乗して1824年にパラオを出発し、タイに到着します。

 この間、1人が病死。

 ここから長崎までのルートは文献によって異同があるのですが、高山純さんが『江戸時代パラウ漂流記』(三一書房、1993年)で行っている史料批判によれば、タイからは中国の船に乗り、概ね廈門(アモイ)を経由した後にもう一箇所か二箇所(福建、浙江、寧波など)を経由して、2艘の中国船に分乗して日本に向かったようです。最終的に日本を目指して出航したのは1825年の11月。

 ところが何と、この2艘がいずれも遭難してしまい!!! 1艘は屋久島、もう1艘は現在の静岡県下吉田に漂着するという災難となります。ともかくようやく日本に戻ってきた奥州の9人は直ちに長崎の奉行所に送られ、そこで取り調べ。稲若丸と同じですね。取り調べ中に1人が病死、故郷に送還される間にもう1人が病死。

 せっかく日本に戻れたのに、長々と収監されて取り調べですからね。そこで気力が萎えてしまったのであろうと医者はコメントしたそうです。

 最後まで生き延びた漂流民は5人。1826年11月に盛岡城で南部藩主に事情を話し、そこで生涯の扶持米(当時、漂流して外国に行って戻った人間は二度と海に出さないのが一般的だったので、生活保障として米を与えられた)を保証されて帰郷しました。

 稲若丸の時よりいくぶん生き延びた人数が多いところが救いですね。