1月7日付けのホノルル・スターブレティン紙によると、ホクレアとアリンガノ・マイスはカワイハエを出てから「カホオラウェ島沖を通過して」、それから船を南西に向け、マジュロを目指すのだそうです。
カホオラウェ島。
何となく耳の底にその響きは残っているのですが、ええと、何でしたっけね。あれですよ。ずっと米軍の演習場になっていて、島そのものがズタズタになってしまったあの島。
良い機会なんで少し調べてみました。カホオラウェ島の歴史。
場所はマウイ島の西側です。すぐ近くです。かつてはこの島とラナイ島、そしてマウイ島が一つの島だったのだそうです。ラナイ島とカホオラウェ島の間の海峡が「タヒチへの途」すなわちケアライカヒキ海峡。かつてタヒチへと向かう航海カヌーが出航していった水路です。
かつてはこの島にもハワイ人のコミュニティがありました。ところが度重なる戦争で島の土地は荒廃し、ハワイ王朝が成立する頃には殆ど無人の島になってしまいます。カメハメハ3世はこの島を流刑地として使った位ですから、いかに過酷な環境となってしまっていたかが解ろうというもの。
さて、20世紀に入るとハワイ自治政府(この頃ハワイはアメリカの自治領でした)はカホオラウェ島を森林保護区にして、自然を回復させようとします。しかしすぐにこの島はアメリカ人の資本家に貸与されて牧場に転用されてしまいます。ですが干魃が定期的にやって来るので、結局は牧場も撤退。さてどうしようかとなったところで日本軍による真珠湾攻撃が勃発し、ハワイは戒厳令下に置かれます。この時、カホオラウェ島は米軍の演習地として接収されました。
それで米軍がこの島を何に使ったかというと、上陸作戦の練習場所にしたんですよ。
この頃の上陸作戦ってどんな物か知ってますか? まずは戦艦の主砲で徹底的に敵の陣地を砲撃して、それから海兵隊が乗り込んで行くんです。この練習に使われたのがカホオラウェ島。当然ながら戦艦主砲が雨あられと降り注ぎます。硫黄島への上陸作戦前もここで練習してたらしいです。
太平洋戦争が終わったら今度は朝鮮戦争。朝鮮戦争は島の戦いじゃ無かったですから、演習のやり方も変わりました。地上にトラックや戦車の模型を並べておいて、戦闘爆撃機で破壊するんです。そういう練習だ。これがベトナム戦争が終わるまで続きました。
カホオラウェ島を取り戻そうという動きが始まるのは1976年。つまりホクレアの第一回タヒチ航海の年。ハワイアン・ルネッサンスの真っ直中。先住ハワイ人のグループがねばり強い活動を展開して、ようやく1991年に演習が終了。島がハワイ州政府に返還されたのは1993年。ダニエル・イノウエ上院議員の活動によるものでした。この時に、島全体が「先住ハワイ人の文化的・宗教的活動にのみ使用される」ことも決まり、この島での営利活動は一切禁じられました。
とはいえ、まだこの島に残る不発弾や演習の残骸の除去は終わっていないのだそうです。
なんかこうね、ハワイの歴史を古代から現代まで凝縮したような島だと思いませんか。最初に島を壊したのは先住ハワイ人でした。さらにメインランドからの入植者が追い打ちをかけ、アメリカ合衆国と日本の大戦争の犠牲となり、それが終わると東西冷戦の影響を受ける。そして、ホクレアが先住ハワイ人文化復興の狼煙を上げた年に、この島を取り戻す運動も始まっている。
PVSが何故にこの島の沖を通ろうと思ったのかは、私にはわかりません。あまりに多く歴史の傷跡が残されている島なので。私には解釈出来ません。PVSはこの島について日本人に語ろうとしていないんだから、多分彼らの中で完結する意味があるんだと思いますけれどもね。ですから、この島については保留。ホクレアが日本まで来たら、「あの島の鼻先をかすめて出てきたのは何故?」と聞いてみたら面白いんじゃないかと思います。
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