代理出産とライフガードの違いがよく分からない

 今日の毎日新聞に、代理出産の是非を巡る二つの意見が掲載されていました。

 一つは先日「母親が娘の代理母になった代理出産」を手がけた根津八紘医師。もう一つは柘植あづみという医療人類学の研究者。明治学院大教授。調べてみたら不妊治療の場をフィールドにしたインタビュー調査などもやったことがあるようですね。

 この二つの意見に限定して言えば、論の深みという点で天と地ほどの違いがありました。根津医師の意見の方が断然深かった。柘植教授はそもそも論点をきちんと設定出来ておらず、思いつくままに何かネガティブなトピックを羅列してみたというだけという感じですね。

 根津医師の意見は明快です。「目の前に困っている人がいれば助けるのが人間社会の基本」であり、また「代理母出産は法律上可能である」以上、最後の望みを持って自分の所に来る夫婦を門前払いすることは出来ないと。ただし、自分の所に来た夫婦に片っ端から代理母出産をやらせているのではなく、自分からは一度も勧めたことはないし、殆ど(8割)の夫婦はカウンセリングの上で代理母出産の実施を断っている。

 つまり、極めて入念に事例検討をした上で、最後の選択肢として代理母出産が最善であると判断された事例でのみ、代理母出産を実施しているということですね。

 これに対し柘植教授の論は・・・・論とも言えないようなものですが、「不妊の問題の本質は周囲が不妊の夫婦に圧力をかけることにある」「仮に代理母出産で子供を産んだとしても、その遺伝上の母親には『産めない女』という烙印が押されたままで何の解決にもならない」「一人産めば、また次の子供をという圧力がかかるに決まっている」「代理出産が広く認められれば、親族に産んでもらえば良いという風潮を助長しかねない」「同、子供がいない家庭はダメだという風潮を助長しかねない」「代理母出産には様々な法的問題が生じやすい」「代理母出産を請け負う女性は貧しい人や移民が中心」「まずは社会を変えることが先決」。

 整理すると、「不妊の問題の本質は周囲が不妊の夫婦に圧力をかけることにある」から、そういった社会を変えれば不妊に悩む夫婦は居なくなるということ。そして、「代理母出産は様々な弊害を引きおこしうる」ということ。

 まっさきに指摘出来る柘植教授の論の欠陥は「子供が欲しい」という希望の全てが「社会に支配的な考え方の結果」であるという部分です。つまり「子供が欲しい」と考える夫婦が、そのような考えを持つに至る原因は、全てこの夫婦を取り巻く社会にあるということです。生殖という問題における個人の自由意思の存在を否定しているのですな。個人が自由意思において「子供が欲しい」と考え、それに向かって行動しているということを認めない。構造主義人類学のレトリックの悪用です。

 たしかに社会に支配的な価値観が個人の判断に影響を与えることはある。しかし、社会に支配的な価値観が個人の判断を全て決定するというのは詭弁です。

 また、仮に社会が個人に生殖をある程度要請しているとしましょうか。それっていけないことなんでしょうか? 柘植教授のレトリックを単純化すればこうなります。

・ 子供を産み育てることが価値あることだと考える社会は間違っている

 それはねえ(笑)。子供を産むこと、育てることが素晴らしいことだと考えない社会って私はやだな。いえね、本当は違うんです。問題があるとしたらこういうこと。

・ 夫婦は必ず子供を産み育てるべきだと考える社会は間違っている。

 これは私も同意します。そして、この主張からは次の主張を引き出すことが出来ます。

・ 夫婦はそれぞれの自由意思の合意の結果として、自分たちは子供を産み育てないという選択をすることが出来る。

 これにも私は同意します。ですが、これらの主張からは次の主張を逆立ちしても引き出せません。

・ 夫婦はそれぞれの自由意思の合意の結果として、子供を欲しいと考えてはならない。

 おわかりでしょうか。「子供が欲しい」という自由意志が社会に支配的な価値観の影響を受けて形成されるにせよ、それは「子供を産み育てることは価値あることである」という価値観の結果であって、「夫婦は必ず子供を産み育てるべきだ」という価値観の影響ではない。だって後者は当該夫婦の自由意志に反する要求を社会が突き付けていることになりますからね。そういうものを「自由意志」とは言い難い。

 つまり柘植教授は二つの問題を混同しているのですね。自由意志(「子供を持たない」という意志)への禁則という問題から、自由意志(「子供が欲しい」)の発生を説明しようとしている。しかしそれは無理筋です。「やってはいけない」という命令をいくら重ねても、「なにかをしたい」という自由意志を発生させることは出来ない。それが出来たら人類はとっくにコンピュータに自由意志を持たせてますがな。

 さて、私の印象に強く残ったのは、根津医師のいくつかの言葉でした。すなわち「目の前で困っている人がいたら助ける」ということ。Eddie would goということですね。そしてもう一つ。「代理出産は命がけの試みで、尊い自己犠牲に基づくものだ」という言葉。もちろん様々な事例の中には、もしかしたら謝礼金目的という方もおられるのかもしれませんが、全てをそのように捉えるかのような柘植教授の論には強い違和感があります。

 例えばライフガードやライフセーバーは、自分の命を危険にさらしつつ、他人の命を生かそうとする。彼らが尊い存在であることは疑い無い。ライフガードはそれで給料を貰っているわけですが、だから彼らの価値が減じられるということはあり得ない。

 それでは自分の命を危険にさらしつつ、他の命を誕生させようとする代理母は尊くないのでしょうか? 謝礼を貰って他の命を誕生させようとするのは卑しい行為なのでしょうか?

 少なくとも私は、拙速な判断は避けたいと感じています。頭ごなしに根津医師や代理母出産に関わった人々、高田延彦・向井亜紀夫妻などを倫理観に欠けるなどと言うのはどうかと思いますね。人の生き死ににダイレクトに関わる問題については、論評する方も慎重さが求められるのではないか。個々の事例検討を十分に行わないまま、倫理という言葉を大上段に振り回す意見には、考えの浅さを感じます。

 いかにも代理母出産を批判したくて仕方がない毎日新聞を読んでいて、そんなことを思いました。