いよいよ来るぞ「EDDIE WOULD GO」

 とまあそんなわけで、目出度く日本語版が出ることになった(はず)エディ・アイカウの伝記『EDDIE WOULD GO』。私はこれまで、この本がホクレア号の日本航海までに日本語で読めるようになっていることが必要だと主張してきました。何故ならば、この本はホクレア号の持つ多様で複雑な意味のうち、いくつかの重要な部分を、わかりやすく教えてくれていると感じるからです。

 その一つ一つを私が事細かに説明するよりも、それはもう本当に、実際に翻訳されて出てくるであろう日本語版をじっくりと読んでいただくのが最善の道であること疑いないのですが、とはいっても、まずは皆さんに興味を持って貰う、手にとって貰う、買って貰うというところが無ければ始まらない。

 そこで。

 私自身が出版社へのプレゼンの為にざっと訳したものを、少しだけ掲載しますので、それをもとに、本物の日本語版への期待を膨らませていただきましょう。なお、実際の日本語版には私はノータッチですので、訳文はかなり違うものになると思います。実際の日本語版が出てから読み比べると、翻訳家によっていかに訳文が違ってくるかもわかると思います。

 では、最終章「Voyage continues」から、エディ・アイカウの捜索が打ち切られ、エディの死が明らかになった後、ナイノア・トンプソンがいかにしてホクレア号を再建していったかの部分を。

「…ナイノア・トンプソンもまた、エディの死という現実に苦しみ、また責任を感じていた。元々海の上に居る方を好んだという事もあるが、陸の上で事後処理に奔走するナイノアに生気は無かった。この時の事を語るナイノアの瞳の色は、深く水を湛えた暗いプールのようだった。
「ホクレア号の遭難に関する私の責任は重大でした。私はまだまだ未熟だったんです。」
 しかし、船長を務めたデイヴ・ライマンがホクレア号から完全に身を引いたのに対し、ナイノアはデイヴに代わってホクレア号を再び海に戻す道を選んだ。彼はエディの夢を引き継ぎ、伝統的航海術を用いてホクレア号をタヒチまで航海させ、水平線からタヒチの島々が現れてくる所を見なければならなかった。
 「エディの夢、エディの思い描いた光景が、私を突き動かしていました。もしも航海を止めてしまったら、エディが見たかった光景は二度と見られなかったでしょうし、エディが命を賭けて救おうとしたものを無に返してしまう事になったのです。」
さらにナイノアは続けた。
「だから私にとって、為すべき事は一つでした。航海を続けるのです。航海を止めるという選択肢はありませんでした。ただ、いかにして航海を続けるのか。それだけが問題でした。あの事件は多くの人間にとって転機になりました。船から降りる決断をした人々もいました。もちろん、彼らの決断には敬意が払われました。ですが、最後まで航海を続ける道を選んだ人々もいました。そして私たちは、ホクレア号の航海における最優先事項として、改めて、安全が全てに優先する事を確認しました。」

 ホクレア号の再建は難航した。人々はまだエディの死の衝撃から立ち直っておらず、資金もなかなか集まらなかったし、再建を目指すホクレア号に対する人々の関心も低かった。ジョージ・アリヨシ州知事が協力を申し出たのは、そんな時だった。彼はホクレア号のメンバーを執務室に呼ぶと、計画への協力を表明し、また個人的な寄付も申し出たのである。アリヨシは言う。
「私が彼らに話したのは、彼らは極めて重要な事業に取り組んでいるのだということ、だから決して諦めないで欲しいということでした。」
そしてまた、こうも回想した。
「どんなことをしてでも、ホクレアを再生しなければならない、私はそう感じていました。」
 合衆国で初めて日系の州知事となったこの人物は、ホクレア号の次の航海が多種多様な出自を持つハワイの人々を団結させ、また前回の遭難の傷を癒しうるものだという事に、気づいていたのである。アリヨシ州知事は、ホクレア号が再び海に出る事こそ、今やハワイの誇りそのものとなったエディ・アイカウに対する最大の追悼でもあると考えていた。

 一九八〇年のホクレアのタヒチ行に際しては、厳しい訓練と入念な計画が用意された。
 ナイノアはミクロネシア人の老航海士マウ・ピアイルックを説き伏せ、再びホクレアに乗船して貰えることとなった。マウは幾晩も幾晩もナイノアを伴って夜空を見上げ、星の見つけ方から始まってその使い方に至るまで、この若者に自分の技術を伝えていった。
 またナイノアは、ウィル・キセルカ教授に付いて、天文学も学んでいた。二人はビショップ博物館のプラネタリウムを使って、来る日も来る日も星の動きを追い続けた。やがてナイノアは、古代ポリネシアの航法術と近代天文学を組み合わせ、スター・コンパスと呼ばれる彼独自の方法を編み出していった。
 この複合的なシステムは、彼自身の出自、ハパ・ハオレと呼ばれる先住ハワイ人と白人の混血を思い起こさせた。ナイノアはエディが望んだように、彼らの祖先が何世紀も前に用いたものと同じ航法術、同じ航路を辿ってタヒチに行くつもりであった。
 しかしまたナイノアは、最新の安全技術を駆使し、あらゆるミスの可能性を潰していくという事も忘れていなかった。前回の手痛い教訓から、ナイノアはホクレア号の安全に関しては万全の体制を敷き、完璧に訓練されたクルーと万が一に備えた伴走船を準備した。伴走船に選ばれたのは二本のマストを持つクルーザーで、近代的設備や緊急事態を想定した各種機材を搭載していた。

 二年に渡るホクレア号の改修と、何ヶ月にも及ぶクルーの訓練を終え、ホクレア号は出航の準備を再び整えつつあった。
 そうして全ての準備が終了した時、ホクレア号のクルーはオアフ島で最も古い教会へと集まってきた。再建されたホクレア号を、エディに捧げる為である。
 この儀式は、常に近代ハワイの歴史の舞台となってきたカワイアハオ教会で執り行われた。ちなみに、かつてこの珊瑚を積み上げて造られた教会においてカメハメハ三世が語った言葉"Ua mau ke ea o ka 'aina i ka pono"(大地の生命は、正義とともにある)は、現在ではハワイ州のモットーになっている。また、この教会において、ハワイ王朝の歴代の王たちがキリスト教の神に対する誓約を行ってもきたのだった。もっとも、その間も常に彼らの土地と権力は奪われ続けていたのであるが。さらには、ハワイの立州が宣言されたのもこの教会である。この立州の式典で、アカカ司祭は「ハワイの希望と畏れが、今日、立州の場で一つになりました。」と述べたものだ。
 さて、その二十一年後、いままた一つの意義深い儀式が、この教会で執り行われようとしていた。ホクレア号とそのクルーが、まもなく行われるタヒチへの航海にむけて、祝福を受けるのである。儀式の最後に、司祭を務めたカフ・ケアラナヘレはこう宣言した。
「ホクレア号に乗って旅をするのはあなたたちだけではありません。そこには常にもうひとり、エディ・アイカウの魂がいるのです。」

 前回の航海から、ほぼ丸二年が過ぎた一九八〇年三月十五日、ホクレア号は伴走船とともに、ビッグアイランド のヒロの港を出港した。
 出航後まもなく、前回の遭難を彷彿とさせる荒天が彼らに襲いかかったが、今回は船もクルーも万全の体制でこれを迎え撃つことが出来た。ホクレア号は嵐を無事に乗り切り、一気に距離を稼いだ。
 マリオンはまたも激しい船酔いに襲われたが、マリオンによれば
「出航から四日も経つと、船酔いはすっかり治ってしまいました。」
のだそうだ。その時のことをマリオンは次のように語る。
「まるで、生き返ったかのような気分でしたね。船酔いが治った後の航海は素晴らしいものでした。終わるのが残念だったくらいです。」
 もう一人の女性クルー、ジョー・アン・スターリングもまた、ホクレア号が再びタヒチへ向かう事を多いに喜んでいた。彼女はタヒチ人とハワイ人の間に生まれ、ハワイ人である父親サム・カハナモクと暮らす為にハワイに移るまで、しばらくの間、母親とともにタヒチに住んでいたのだった。
 「私はタヒチとハワイの血を引いていますから、ダブル・カヌーでタヒチに戻れるという事は、神様が与えてくれた奇跡のようなものです。言ってみれば、私を取り巻く文化の環が全て繋がったような、そんな感じでした。ホクレア号は新しい時代の始まりを告げていたような気がします。ホクレア号のおかげでみんながフラや伝統的なダンスを学び始めていました。ホクレア号は私たちが誇りを取り戻すきっかけをくれたんですよ。今でも私は、太平洋で一番偉大な人造物は何かと訊かれれば、それはホクレア号だと答えますね。」
 現実のホクレア号の上での生活では、狭いスペースをクルーが共用せざるをえなかったが、それでもジョー・アンは言う。
「ホクレア号での航海は、私に無限の広がりを感じさせてくれました。いわば、自分が世界そのものと一つになったような感覚です。」
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