続き

 ジョー・アンたちのそんな開放感とは裏腹に、ナイノアは常にカヌーの進路に神経を使い続けていた。
 夜は星の動きを観察し、昼は昼で波のうねりの向きを観察する。そうして彼は航海の間、殆ど不眠不休で、デッキの上に立ち続けたのだった。しかし彼は孤独ではなかった。マウ・ピアイルグとウィル・キセルカという二人の師父が、彼を見守り続けていた。
 キセルカは、彼の著書『An Ocean in Mind』の中で、伴走船であるイシュカ号での生活を描いている。イシュカ号はホクレア号の一マイルないし二マイル(一・六から三・二キロメートル)後方を進み、キセルカはその中にいてホクレア号の進路を計測しつつ、常にナイノアと無線連絡を取り続けた。
 キセルカはこう回想する。
「あれは素晴らしかったよ。彼が現在位置を推測して知らせてくれるんだけど、それはこっちで機械を使って測った現在位置から、いつも五マイル(八キロメートル)以内の誤差で収まっているんだ。時々、現在位置を彼が推測した根拠も教えてくれたよ。彼は五つか六つの手がかりを頼りに、自分の位置を正確に割り出してしまうんだ。私は凄い瞬間に立ち会っていると思ったね。まさに新しい航法技術が生まれようとしていたんだ。」

 一方、カヌーの上では、マウが黙ってナイノアの仕事ぶりを観察していた。
 クルーの一人であったハリー・ホーは言う。
「ある時から、マウは毎日十二時間も寝るようになったんだ。それで俺たちは、ナイノアが正しい航路を選んでいるってわかったのさ。」
 ちなみに、一九七六年のタヒチ行では、マウは殆ど睡眠を取らずにハワイからタヒチまでホクレア号を導いていた。
「それが航海の途中からグウグウ寝るようになったから、俺たちはマウが寝るたびに『おい、またコンピュータがダウンしたぞ。』と冗談を言い合っていたものさ。」
 ホクレア号のタヒチへの航海は、三十三日間に及んだ。
 いくつかの嵐をしのぎ、また赤道無風帯を越え、厳しい冷え込みの夜と苛烈な日差しをくぐり抜けて、ホクレア号はタヒチへと向かった。たまに釣り上がる新鮮な魚を除けば、クルーが口にしたのは乾燥食品と缶詰だけだった。何日もの間、海水を被り続ける航海が続いたとしても、雨が降らない限りは、真水を浴びることさえ出来なかった。しかし航海の全期間を通じてクルーの志気は高く、やがてコアジサシが目に付くようになると、クルーは争って島影を探し始めた 。
 そして、あるクルーがマストによじ登ったとき、ついに島影が確認されたのだった。
 うずくまった亀の甲羅のようにして陸地が見えて来ると、彼は興奮して彼を見上げている他のクルーたちにもそれを告げた。やがてクルーの全員が、水平線の彼方から現れてくる島影を見つめた。その光景は、誰にとっても一生忘れられないものになった。

 航海が終わりに近づくにつれ、ナイノアはエディの夢を強く意識するようになっていた。
「ある一つの光景が私を突き動かしていました。『タヒチの島影が水平線から現れてくる。』それはエディ自身が語った言葉でした。その言葉は、静かに、しかし非常に強い力で、私を支えてくれていました。ところが実際に水平線の向こう側からココヤシの木が見えてきた時、私には一気に色々な感情が押し寄せてきて、どうしたら良いのかわからなくなってしまったんです。私はそのままキャンバスで区切られた睡眠用区画 に入って、そして泣きました。」
 かくも印象深い航海を終えようとしていたナイノアは、しばらく一人になって気持ちを整理するために、狭い睡眠用区画に潜り込んだのだった。その瞬間ナイノアは、彼の傍にエディ・アイカウの存在を感じたという。
 「エディの存在をあれほど強く感じた瞬間はありませんでした・・・・そして、これから全て上手く行くに違いないという確信が私を包みこみました。何故ならば、それこそ最後にエディが私に言い残した言葉だったからです。『俺は大丈夫だ。安心しろ。全て上手く行くよ。』そう言って彼は漕ぎ出して行ったんです。」

  ホクレア号がパペエテの港に到着すると、何百艘ものカヌーがホクレア号を取り囲んだ。海岸には何千人もの人々が集まり、彼らの航海を讃えた。
 歓迎の式典で、クルーはまるで古代ポリネシアの王族のようにもてなされ、彼らの帰還 を祝して山のような贈り物とレイ、そして冷えたビールが差し入れられた。クルーの為にタヒチアン・ダンスが披露され、タヒチの有力者たちは歓迎の祝宴を設けた。タヒチの首相も彼らの労をねぎらいにきた。要するにホクレア号は、長い長い旅を終えてタヒチに帰ってきた、彼らの家族のようなものだったのだ。
 ナイノア・トンプソンは、太陽と星、そして海鳥だけを目印に遠洋航海を成功させた、最初の近代ポリネシア人となった 。彼の温かい笑顔と憂愁を湛えた瞳は、瞬く間にタヒチ中の女性を虜にした。そして、ナイノアを知る者の所には、ナイノアに紹介してくれと頼みに来る女性が殺到した。全ての新聞にナイノアの顔写真が掲載され、ナイノアはタヒチと、もちろんハワイにおいても、英雄に祭り上げられた。
 しかし、これはナイノアにとって嬉しくも苦々しい日々であった。彼の胸の中には常にエディへの想いがあった。

 タヒチへの航海の完了とともに、ホクレア号の目的は大きく変化していった。
 この後のホクレア号は太平洋を縦横無尽に駆けめぐり、サモア、トンガ、マルケサス諸島、ニュージーランドなど、ポリネシア三角地域の殆どを制覇していった。また、一九七六年のホクレア号の最初の航海がポリネシア伝統文化再生の烽火を上げて後、様々な地域で、ホクレア号を見習った航海カヌーが建造されていた。一九八〇年のタヒチ航海に続く十数年は、これらポリネシア諸地域の若者たちをポリネシア航海協会に受け入れ、ホクレア号に搭乗させて、伝統的航海術について学ばせる時期でもあった。いつか彼ら自身が、自分たちの航海カヌーに乗ってハワイへと帰ってくる為に。」