私は昔から毎日新聞を購読しているのですが、いつの頃からか、ある記者の名前を気にするようになりました。藤原章生さん。97年とかそのくらいだったかな。
当時、南アフリカに駐在しておられた藤原さんは、時々、短いけれども単純な紋切り型の構図に収まらない、収まりが悪いというか割り切れないものを敢えて残したというか、そういう記事を書いておられました。何でもかんでも単純な図式に還元してしまう書き手ばかりの新聞記者には珍しく(失礼)、すごく力のある書き手だなと思って注目していましたら、いつしかラテンアメリカに異動になったようでしたが(そして相変わらず「おっ」と思わせる記事を送っておられますが)、この度、アフリカ時代の経験をまとめた本を出されたそうです。
藤原章生『絵はがきにされた少年』集英社、2005年
藤原さんの書き手としての高い実力に気づいていたのは、私だけではなかったようで、まずは目出度い。
さて。何故、このウェブログでこの本を紹介するのか。実は、この本が扱っている南アフリカという国は、航海カヌー文化復興運動に深い関係があります。というのも、かのエディ・アイカウが先住ハワイアンとしてのアイデンティティに目ざめたのは、南アフリカで人種差別を受けた経験がきっかけだったからです。
では。そのアパルトヘイトの国、南アフリカとは、実際にはどんな所なのか。風の噂に伝わってくるのは、恐ろしい話ばかりですね。エイズの蔓延、世界一治安の悪い都市ヨハネスブルグ、頻発するレイプ。藤原さんの本もまた、南アフリカのそういった側面を隠そうとはしません。絶望的な貧困があり、強盗もレイプも当たり前の荒みきった社会があり。藤原さんも藤原さんの奥様さえも自動車強盗に襲われ、生きていてラッキーみたいな経験をします。
しかし、藤原さんの筆は、そういった南アフリカの現実を直視しつつも、そのような社会の中に生きる人々の全てが絶望と憎悪で黒く塗り込められた人生を送っているわけではないことを明らかにしていきます。
藤原さんは何度も何度も繰り返します。殆どのアフリカ人は極めて控えめで、穏和な人々だと。それは、例えば白人資本の大企業に搾取的に雇用されて、年金も健康管理も無いままに使い捨てられただけと傍目には見える人生でさえ、本人はその人生に誇りを持ち、良い人生だったと心から満足しているというようなエピソードをいくつも連ねることで、具体的に明らかにされていきます。
また、藤原さんはこうも書きます。
「あるときまで、ケレが私の仕事を手伝ってくれるのはビジネスと割り切ってのことではないかと、思っていた。しかし、後にわかったことだが、彼は私が紹介した日本人が私の倍の日当を払っても、気が合わなければ、働こうとしなかった。
『お前に頼まれたから、他の日本人と働いているけど、もう勘弁してほしい』
そんなことを何度か聞かされた。多くの貧しいアフリカ人がそうだった。彼らはパンのために働くような人間ではなかったのだ。好きな相手以外の人間のために働くことは、どんなに金を積まれても耐えられない。」
彼らには、彼らの信じる確固とした価値観、生き方がある。それは、抑圧されていて許せないとか、搾取は不当だとかいう物差しだけでは測れない。アフリカとは、そんな単純な世界ではない。藤原さんはこれをきっちりと申し立てるのです。
「身寄りを失ったフツ族(ルワンダの庶民階級)は村から去らなければいけない」という、何のためにあるのか誰にもわからない掟に従って村を追い立てられた若者は、本当に偶然、心優しいツチ族(ルワンダの上流階級)に庭の片隅を与えられて、そのままルワンダ大虐殺を生き延び、庭の片隅の小さな泥小屋の中で一人年老いて行きます。
藤原さんは、この老人からどうしても社会への呪詛や不満の一言も引き出せません。
しかし、アフリカ、特にアフリカの南半分がすさまじい貧困と収奪と汚職と(アフリカ人同士のものも含む)差別の中にあるのもまた事実です。では、そういった現実の前で、藤原さん、あるいは藤原さんの書く記事を新聞に仕立て、それを売り買いする人々は、どうしたら良いのか。
藤原さんはこう指摘します。
「漠然と無数の人々への援助を考えるよりも、救うべき相手をまず知ることから始めなければならない。先進国の首脳会議などの会場を取り囲み、『貧困解消、貧富の格差の是正』を叫ぶ若者たちがいる。こうしたエネルギーを見ていると、一年でいいからアフリカに行って自分の暮らしを打ち立ててみたらいいと思う。一人のアフリカ人でもいい。自分が親しくなったたった一人でいい。貧しさから人を救い出す、人を向上させるということがどれほどのことで、どれほど自分自身を傷つけることなのか、きっとわかるはずだ。(中略)一般論を語るのはその後でいい。いや、経験してみれば、きっと、多くを語らなくなる。」
これは、藤原さん自身が数多くのアフリカ人と関わり、それを助けようとして傷ついた経験から来ている、重い重い言葉です。
一方、私はいつも主張しています。「エディ・アイカウならどうする?」
果たして、私が主張するような小さなその場限りの援助は間違っているのでしょうか。
いくつかのことが言えると思います。まず、藤原さんがここで私の大嫌いな現場至上主義に陥ってしまっていることは指摘しなければいけません。もちろん何事か創り出す時に、フィールドワークという部分は絶対に必要ですが、それさえやれば良いってものでは絶対にない。南北格差解消ということで言えば、マクロ経済学や各種の社会学の知見無しに上手くいくことは無いでしょう。そういう、机上で仕事をしている人々を軽蔑する風潮は百害あって一利なしです。
藤原さんが暗に批判しておられる「ホワイトバンド」運動や「ライブエイト」運動が、それそのものは決して最終的な解決をもたらすものではないにせよ、ともかくやってみて考えれば良いという私の立場は、以前に「俺は偽善者になりたい」という記事で書きましたね。
そしてまた、私は、藤原さんが試みたような、一人の人を完全に救い出すような全人的な関わりは必ずしも必要ではないと考えています。そんなことはアフリカに行かなくたってわかる。この日本にだって様々な事情で個人的な困難を抱えていて、しかしそのような困難な状況から完全に救い出すことが難しい人はいっぱいいます。そういった人々を完全に「救う」試みは、なかなか上手く行くものではありません。水谷修さんのような市の聖ならともかく、それぞれに自分の生活を抱えているごく普通の市民には、不可能といって良いでしょう。付け加えれば、多くの場合、投入した労働力に比して得られるものの乏しさという点で労働力の浪費でもあります。
必要なのは、魂さえも回復不能なまでに傷ついた人を蘇らせることではなく、そういう人がこれ以上増えないような制度的手当てをしていくことと、まさに命を落とそうとしている人を、「当面ではあっても」、そのような困難の極みから避難させること。この二つだと私は考えています。それ以上のことは出来ないし、やるべきではない。遠くの国の人の魂を救うことなんか人間には出来ない。もしも魂を救われないままに倒れていく人がいたとしたら、それは運が無かったというしかない。その替わり、お金やモノや知恵で必要なものがあれば、言ってくれれば出せるぶんだけは出そうじゃないか。
そういうスタンス。
溺れ死のうとしている人があれば、浮き輪は投げる。でも、溺れずに泳ぐ為の最適な方法は人によって違うから、それは自分で考えて身につけていただくしかない。溺れない方法は教えられない。そういうことで「でもたまたま豊かな国に生まれてしまった自分がこんなこと言うなんておこがましい」とか、下らないことは考えない。そういう時間の無駄はしたくない。そんな下らないことを考えている暇があったら、もっと現実的で建設的なことを考える。
私は、そういうスタンス。結構ドライ。結構クール。
その辺は、私と藤原さんの考え方が大きく異なる部分です。
とはいえ、この本は素晴らしい内容をもった一冊です。是非、手にとってください。