お盆には少し早いのですが、大内青琥画伯のお墓参りに行ってきました。大内画伯は私のような航海カヌーマニアの大先輩にして、実際に航海カヌー文化復興運動に協力し、なおかつ日本国民としておそらく初めて、1000キロを超えるような大航海を航海カヌーで経験した方です。
とある霊園の奥、鬱蒼とした木々の蔭にある、特徴的な丸い墓石が大内家のお墓です。墓碑に刻まれた戒名は「夢酔青琥居士」。
カヌーを探してミクロネシアの島々を渡り歩き、ついにヤップ島のある村に流れ着いた大内画伯には、まことに相応しい戒名だと思いませんか。
大内画伯は生前に出版されたエッセイ集『ヤップの島の物語』でこう書いています。
「島から島へさすらって行く先ざきで、私はそれとなく人々にたずねてきた。『このあたりに、カヌーはありませんか。』
だれかと出会うたびに『カヌーが見たい』
そう、なんとなく真っ先にきいてきた。(中略)
ロタ島の老人。ポナペでは、偶然すれちがいざま声をかけてきた仕事のないカヌー大工。道端にしゃがみこんで小犬をかまっていると、いつしかそっと僕へ遠慮がちに佇んだポリネシア系の米軍労務者。フィジーから来たマオリ族の浮浪青年。
『どこかでカヌーを見かけませんでしたか』
トラック諸島モエンから出稼ぎに来ていた老庭師。チャモロ族の酔いどれ運転手。麻薬常習者のフィリピン系グアムメニアンと木陰へ車を止めているうち、いつのまにか、自分は時代の置き忘れていったような茫洋とたゆとう海の駱駝にゆられており、古風なパンダヌスの葉の網代がうっとりと帆をひろげていたりもした。専門知識などは持ち合わせたくもないが、ただ『カヌー』ときいただけで、その音のひびきに胸ふるえるような懐かしさがある」(『ヤップの島の物語』朝日新聞社、1985年、42-43ページ)
今や太平洋のカヌーを追って日本列島を後にする人々は多いわけですが、インターネットなど無い時代に、ミクロネシアの島々を渡り歩きながらカヌーを探し続けた大内画伯の情熱には、本当に頭が下がります。
異常に暑い日でしたので、持参したウォーターボトルの水を一本分墓石にかけて涼んでいただいてから、しばらく手を合わせて来ました。来年には何十年ぶりかで、リモート・オセアニアの航海カヌーがやってくることとか、大内画伯の後に続き、太平洋のカヌーに関わろうとする日本人が少しずつだけれども増え続けていることをご報告して、私自身も出来る範囲でそういう運動には協力したいと思っているので、どうぞ見守っていてくださいとお願いして、帰ってきました。
光化学スモッグで目と気管支が痛くなった一日でした。げほげほ。