AIによる翻訳・通訳デバイスが日々進化を続ける今、日本語を母語とする人が英語を身につけることの価値を考える

タイトルの通りです。
ここで通訳とはリアルタイムの音声会話を別言語に変換する作業、翻訳とは文字になっているものを別言語に変換する作業としておきます。
10年前の自動翻訳、特に欧米語から日本語へのそれは何の役にも立たない代物でした。
去年のCEATECで見たそれは、一流のプロの仕事に比べるとかなり痛いけれども、ウェブ記事の翻訳で小遣い稼ぎをしている翻訳者の仕事ならほぼ同じくらい、というところまで来ていました。
また通訳に関しても、AIの音声認識技術は日進月歩でありしかも人間には不可能な聖徳太子機能(同時に複数の発話を認識する)も実装されつつあり、これに翻訳エンジンと深層学習による文脈推測機能をくっつければ、従来の聴覚障害者向けの補聴器の弱点とされたカクテルパーティー問題(ざわざわと複数の会話が同時に進行中の場所では役に立たない問題)も、突破は時間の問題でしょう。
なにしろみんな、第二言語や第三言語なんて本音では勉強したくないわけです。とにかくコスト(時間とお金)を沼のように飲み込む領域ですからね。何千時間と何百万円というコストをかけて英語がそこそこ流暢に話せるようになったとしても、そんな人はアメリカやオーストラリアに行けば億単位で道を歩いてます。片八百長みたいな勝負です。
それでもかつては、英語が出来る人は「とにかくお金や時間をそこにいっぱい突っ込める環境で育った人=ええとこの子」という目印になったので、相対的に楽に良い給料がもらえる職場に就職しやすかった。だからみんな頑張った。
でも今は、正直な話、英語が流暢ですというだけの人は値崩れしています。それプラス、何かの専門領域の知識があるとか、とにかく営業力がすごくてモノやサービスを売りまくれるとか、ブラック労働にも文句言わず24時間戦ってくれるとか、もう一つの売りが無いと、良い給料のお仕事はもらえない。東京でだって、英語メインで仕事して年収700万円もらえるポジションなんてそうそうあるもんじゃないっすよ。皆さん思っているのより、遥かに英語を使える人は余っているし、英語が必要なポジションは少ないのです。
ではいっそのこと英語の勉強なんてしなくても良いのか? AIがあるし。
これに対する私の答えはYES AND NOです。
例えばお片付けの教祖としてアメリカで大ブレイク中のコンマリこと近藤麻理恵さんは英語はお上手ではないですが、アメリカ人が求める日本女性のイメージを、日本の土着宗教(神道)のエッセンスも上手くふりかけてアピールした結果が社会現象レベルの大当たり。
そのレベルまで好きなこと(彼女の場合はお片付け)を追及しておけば、まあなんとかなるもんです。人生。
そのレベルでなくとも、まあ英語など出来なくても稼ぐ方法はいくらでもあるので、最低限、学校文法と基礎的な語彙くらいを身に着けておけば十分かと思います。あとはAI任せで良いと思うよホント。
とはいえ、研究者になろうと思ったら英語の読み書きは絶対に必要ですし、それはいくらAIが発達しても代替されません。最後は人間が情報をチェックし、その情報をどう読解したかの責任は個々の研究者が負うというのが科学の決まりですからね。「私はこれをこう読みました」という責任は機械は負えないわけです。他のプロフェッショナル職もそうですね。
そういう仕事をしたいなら、英語は必要です。やらんとあかん。
ただし、私の考えでは、英語を第一言語とする話者たちの中に放り込まれてパーティーで楽しくお話し出来る(最も英語の使用シチュエーションとしては高難易度)ところまで頑張る必要は無い。やりたきゃやりゃ良いけど、そんなの仕事にあまり関係無い。
文字化された自分の専門領域の英語の文章を正確に読み取り、シンプルな文章で良いので英語で自分の伝えたいこと(研究内容や仕事の話)を伝えきることが出来るところまで。
何故ならば、パーティーでウェイウェイ出来るくらい英語を身につけるためには、あまりにもお金と時間がかかりすぎるわりに、リターンはさほど増えないからです。必要以上の投資になってしまう。それが必要なのは英語話者の恋人や結婚相手を見つけたい人だけ。
一方、仕事に必要な情報のやり取りが確実に出来るというレベルなら、そこまで膨大なリソースを注ぎ込まなくても身につけられるし、投資に対する見返りもある。だから、そこまではやっておきましょう。です。
いずれにしても一番大事なことは
「自分は何をしているとき、どんな時に幸せなのか」
これを全ての基準にすること。英語学習は幸せへの100%確実な投資ではありません。全く全然そんなことありません。出来なくても生きていけるし、英語が出来ない奴は虐殺されるような世の中はあってはならないし、きっとそうならない。
そういえば博士課程でご指導いただいた永見勇先生は、ポスコロやサバルタンが「語ることの権力性」で銅鉄研究を量産してウェイウェイしていた時、こんなことをおっしゃっていました。
「加藤くん、言葉というのはね、御恵み(みめぐみ:英語ではgrace:キリスト教における神の人間に対する恩寵を指す)なんだよ。」
人と人を繋ぐものであるべき言葉、その中でも最も幅広く使われている英語が、差別や金儲けやマウンティングや拗らせの道具として便利に使われているのは、まことに残念極まりないですね。