『アラトリステⅢ:ブレダの太陽』5章より

 なんとなくこのシーンを思い出した。

 ご丁寧にもオランダ軍は、曙光とともに攻撃をしかけてきた。敵の軽騎兵 は火縄銃兵(アルカビュセロ)からなる我が軍の先鋒を敗走させると、すぐに隊列を再編成して進軍し、私たちの前に現れた。彼らの狙いは、ラウテルの風車からアウドゥケルクを経てブレダへ向かう道の制圧だった。
 ブラガド隊長の中隊への命令は、低湿地と道路の間にあって柵と木々に囲まれた牧草地に移動し、そこで他の中隊とともに隊列を組めというものだった。道路の反対側にはドン・カルロス・ソエスト率いるワロン人歩兵連隊――我らが国王陛下に忠実なカトリックのフランドル人で構成されていた――が同じように隊列を組んでいた。この二個歩兵連隊が、四分の一レグア に渡って道路の両側に展開したのである。林立する長槍の中心には軍旗が翻り、長槍兵の隊列の前面と側面は火縄銃兵(アルカビュセロ)とマスケット銃兵(ムスケテロ)によって固められていて、まことに勇壮な眺めだった。
 一方、我々が方陣を組んでいる間にもオランダ軍は接近していた。牧草地にほど近い土手の緩斜面は、見る見るオランダ兵に覆われていった。彼我の戦力比は一対五だった。マウリッツ・ド・ナッサウは、自分の領地からすべての人間を駆り出して来たのではないかと囁かれていたほどである。
 
「国王陛下に誓って、これは大変な戦いになるぞ」とブラガド隊長が言うのが聞こえた。
「ただ、少なくとも砲兵は来ていないようですね」とコト少尉が言った。
「今のところはな」
 二人とも帽子のつばの下で目を細め、輝く槍と胴鎧と兜がカルタヘナ歩兵連隊の正面の広大な地面を覆ってゆくのを眺めていた。それは他のスペイン兵と同じように、職業軍人としての眼差しだった。
 アラトリステの分隊は隊列の先頭で火縄銃の準備を整え、マスケット銃を叉杖に置いていた。口には弾丸をくわえており、火縄の両端には火が点けられていた。彼らは連隊の方陣の左翼の防御を担当していた。分隊の背後には長槍だけを持った長槍兵と胴鎧をつけた長槍兵が控えていた。長槍兵の横の間隔は一キュービット。最前列の軽装の長槍兵は肩に長槍を載せており、二列目の長槍兵は鉄兜、喉当て、胸当て、後胴 で身を固め二十五パルモ の長槍を地面に立てていた。
 私はアラトリステの声が聞こえる範囲にいて、必要に応じ彼の分隊に弾薬や一オンサの弾丸、水などを補給することになっていた。私は、どんどん密集してゆくオランダ軍の隊列とアラトリステたちの落ち着き払った様子を、かわるがわる見た。スペイン兵は自分の持ち場についたまま動かなかった。彼らは近くの仲間に必要事項を小声で伝える時以外は口を開かず、物思いにふけっているような表情であちこちに目をやった。また彼らは祈りの言葉をつぶやき、口髭をよじり、あるいは乾いた唇を舌で舐めながら、戦闘が始まるのを待っていた。
 間近に迫った戦闘に興奮していた私は、何か役に立ちたいと思ってアラトリステの所まで行き、水は欲しくないか、何か用事はないかと尋ねた。しかし、彼は私にほとんど目もくれなかった。アラトリステは火縄銃の銃床を地面に突いて銃身に両手を置いていた。左の手首に巻いた火縄からは煙がくすぶり、彼の澄んだ目は敵陣をじっと見つめていた。帽子のつばが彼の顔に影を落としていた。アラトリステは水牛の革の胴着を身に付けており、その上の色あせた赤い飾り帯に交差するように弾帯をかけていた。弾帯には十二発分の弾薬、剣、短剣、そして火薬入れが装着されていた。伸び放題の口髭、日焼けした顔。前日からひげを剃っていないこけた頬のせいで、彼のとがった横顔はいつもよりさらにやせ細って見えた。
(中略)
 それまでにも私はフランドルでの戦闘を経験していたが、遮蔽物のない戦場での会戦に参加するのは初めてだった。そして、スペイン軍が敵の攻撃が始まるのを黙って待っている姿を目にしたのも、この時が初めてであった。この間の沈黙は独特だった。世界で一番秩序のない国からやってきた髭面の男たちが、方陣を組んだまま押し黙って、身震い一つせずに立っていた。スペイン兵たちは定められた以外の動作は一切行わず、不動のままで、敵が接近してくる様子を眺めていた。このラウテルの風車の前で、初めて私は、何故スペイン歩兵がヨーロッパで最も恐れられた軍隊であったのかを理解した。そしてまた、スペイン歩兵はこれからも当分の間、怖れられる存在であり続けるであろうとも思った。戦闘中のスペイン歩兵連隊は、規律によって完全に統率された戦闘装置なのだった。兵士の一人一人が、己の仕事を熟知していた。これが我々の強みであり誇りでもあった。あの男たち、つまり郷士と命知らずとゴロツキという、スペインのくず連中で構成された多彩な集団は、カトリックの王を戴く国と真の宗教のため戦うことこそ、最高の名誉であると考えていたのである。それは最も蔑まれている者にさえ、他所では手に入れることの出来ない誇りを与えてくれる行為だったのだ。

(アルトゥール・ペレス=レベルテ著、加藤晃生他訳)

 これまで色々とお説教を垂れてくださってきた論壇の先生方がやたら興奮してツイッターで有名な怪文書を拡散させたり、原発即時全廃を叫びだしたり、政府や東電の吊し上げに参加したりと目に見えて浮き足立っている一方で、自分の出番に備えて淡々と準備を整えている百戦錬磨のプロフェッショナルたちも沢山います。