人知れず消えてゆく者こそ真の偉人であるのかもしれにゃい

 荒木さんが凹んでいます(笑)。

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 彼が感じていることは何となく分かります。これは世界中どこでもそうですが、群れに加わらない者は実力があってもその実力をフェアに評価されないものです。彼のような生き方を選んだ時点で、こういった凹みは必然でした。

 さて、私が今、研究しているのは高橋潔先生の思想です。高橋先生は戦前から戦後にかけて長く大阪市立聾学校の校長を務められた方で、全世界が雪崩を打ってろう学校における手話の排除に向かった中で、函館聾学校の佐藤在寛氏とともに手話擁護の論陣を張り、一歩も退かずに最後まで手話によるろう教育の孤塁を守り続けたと伝えられる偉人です。

 偉人ですけれども、現在、高橋先生のことを知る人は非常に少ないです。ろう教育界においてさえそうです。昨年、カレン・ナカムラというアメリカの研究者が日本の近代ろう者史をまとめた「Deaf in Japan」という本を出しまして、これはエール大学だかどこだかの博士論文を本にしたものだそうですけれども、やはり高橋先生のことは欠片も触れられていませんでした。私はカレン・ナカムラさんにメールを出して「高橋先生に一言も触れないのは、本のテーマを考えると致命的な欠陥じゃないか」と申し上げたのですが、彼女は「その人物のことは知りませんでした。貴殿が英語の論文で是非とも書いてください」と・・・お前、日本のこと研究するならお前が日本語の文献読めよと言いたいですね(笑)。

 さて、高橋先生は仙台伊達藩の藩士の家に生まれたのですが、東北学院で学んでいる間にクリスチャンになりました。そして本当にろう教育に全人生を捧げられました。自分が死んだ時に遺産が残っているようでは駄目だと常々おっしゃっておられたそうです。そんなお金があったらろう教育に使うのだと。

 もしかしたら、高橋先生の念頭にあったのはマタイ福音書の第6章かもしれません。

「他人に見せる為に善行を行ってはならない。もしもそうしたならば、神があなたに報いることは無いだろう。だからあなたが施しをしようとする時、あなたはそれを触れ回ってはならない。偽善者たちはシナゴーグ(礼拝所)や街でそのようにしており、それ故に周囲からの賞賛を受けている。しかし、これは確かなことなのだが、彼らはそうすることで、それ相応の代償を支払っているのだ。だがあなたが施しをする時は、あなたの右手がしていることを、あなたの左手にさとらせてはならない。そうすれば、あなたは秘密裏に施しを行うことが出来るだろう。そして神は密かにそれを見ておられるし、神はその行いに報いてくださるだろう。

 また、あなたはどのような時も、偽善者たちがするように祈ってはならない。彼らはシナゴーグや街で祈ってみせることを好む。何故ならば、多くの人に祈っている姿を見せることが出来るからである。しかしながら、彼らはやはりそうすることで、それ相応の代償を支払っているのだ。だが、あなたが祈りを捧げる時には自室に戻り、扉を閉めてから密かに祈るべきである。そうすれば神は密かにそれを見られて、あなたに報いるだろう。」(新約聖書・マタイによる福音書6章1節から6節・訳文も筆者による)

 これは厳しい教えです。ですけれども、大事なことを語ってもいます。
私たちが善行をする時、それは誰かに褒めてもらう為なのか? マスメディアにババーンと採り上げられなければ善行をしないのか? 

 イエスの言いたかったことは多分こうです。彼は頭の良い人物でしたから、敢えて人前で善行をしてみせることによって、周囲を啓蒙することが出来るという側面も理解していました。何しろ彼自身、エルサレムの神殿で両替商を叩き出すというパフォーマンスに挑んだ男ですからね。しかしながら、善行の本来の目的はあくまでも社会貢献です。問われなければならないのは、どれだけ社会を良くすることが出来たかという一点であって、仮にパフォーマンスとして善行をしてみせるにしろ、大事なのはそれをする個人の名声における利得ではなく、社会全体の利得なのです。

 高橋先生の業績は今日、殆ど知られていません。アメリカのスター研究者の本でもスルーされました。ですが、実は現在日本で使われている指文字の成立に大きな役割を果たしたのも高橋先生ですし、手話話者のコミュニティとしての大阪市立聾学校を守りぬいて日本の手話の発達の礎としたのも高橋先生です。日本で初めて手話歌を作られたのも、多分、高橋先生です。

 それだけの仕事をしながら、人知れずフェードアウトしていった。今、自分の名前が知られていないことを、むしろ先生は喜んでおられるのではないかと思います。記録には何一つ残らなくとも、その仕事は永遠に残ります。

「他人に見せる為に善行を行ってはならない。」

 私はキリスト教徒ではないですが、たまに彼らの聖書を開いてみると、なかなか良いことが書かれているものです。どれだけ名をなしたかではなく、どれだけ実のある仕事をしたかで勝負しましょう。