マリア・アナ王女の生涯

 マドリまでナンパに来たチャールズ1世とは結局結ばれなかったマリア・アナ王女ですが、その後の彼女はどうなったのでしょうか?

 彼女はあの事件の8年後、1631年にハンガリーおよびボヘミア王のフェルディナントに嫁ぎました。この旦那が1636年に神聖ローマ皇帝フェルディナント3世になります。

 すごいじゃん。神聖ローマ皇妃っすよ。

 ところがですね。このフェルディナント3世が神聖ローマ皇帝になった時代というのは、三十年戦争(1618-1648)の末期でして、結局彼は、この戦争を収拾する為に、プロテスタント諸侯に大幅な譲歩を余儀なくされます。具体的に言えば、彼らの実質的な独立を認めてしまったのです。これは神聖ローマ帝国の事実上の終焉でした。だって国家としての体を成さなくなったわけですから。

 なお、この夫婦は6人の子供に恵まれたのですが、うち4人は早死にしてしまいます。長男は21歳、三男は2歳、四男1歳。次女0歳。
 生き残った子供たちのうち、長女マリアナはフェリペ4世(ん?)の妻となってスペイン国王カルロス2世を生みました。
 四男は後の神聖ローマ皇帝レオポルド1世。

 ちなみにチャールズの方を選んでいたらどないなったか?

 それはわかりません。なんとなれば、イングランド王にスペイン王女が嫁いでいれば、当時の国際情勢は大激震に見舞われていたでしょうから。歴史の全てが変化していたはずです。史実のチャールズはフランスから王妃を迎え(=カトリック)、ピューリタンの弾圧に精を出してピューリタン革命を勃発させ、断頭台の露と消えました。それが1649年。ちなみにこの間、史実のチャールズの妻ヘンリエッタはローマ法王やフランスの力を借りてチャールズの軍資金を集めるなど奔走したのですが、逆にイングランド国内の王党派(=プロテスタント)に疎まれて、結局チャールズは刑死。ヘンリエッタはフランスに戻ったものの、息子チャールズ2世による王政復古に伴って1660年、イングランドに再上陸します。しかしイングランドの水は肌に合わなかったらしく、1665年にはフランスに戻り、そのまま生涯を終えました。

 さて。この流れを見るだに、チャールズの方に行っていてもどうせピューリタン革命は起こり、そしてマリア・アナに為す術は無かったでしょう。彼女もカトリックですからね。というか、そもそも彼女は1646年に40歳で死亡していますから、ピューリタン革命までも生きていなかった・・・・。

 う~む。だったらまあ周囲全部カトリックのオーストリア・ハプスブルグに行っておいてやはり正解だったんじゃないっすかねえ。長註にも書いた通り、チャールズのスチュワート家も隠れカトリックだったんすけどね・・・・。