ナイノアさんが目指しているのは、ホクレアを日本人のスピリチュアリティの核心へと投錨することのようです。そこで、これから『日本人のスピリチュアリティとは何か』について、五月雨式に考えてみるシリーズもやっていこうと思います。
でも、スピリチュアリティって何? 咄嗟にgoo英和辞典で調べてみたら「霊性」とありました。じゃあ霊性って何なの? またgooで調べてみたら「宗教心のあり方。特にカトリック教会などで、敬虔や信仰などの内実、またその伝統をいう」とありました。まあカトリック云々はどうでも良いので、前半に的を絞りましょう。宗教心のあり方。
じゃあ宗教心って何なのさ。
「宗教を信じる人のもつ敬虔(けいけん)な心。神仏などを信じようと求める気持ち。」
同様に「宗教」を引いてみました。
「(1)神仏などを信じて安らぎを得ようとする心のはたらき。また、神仏の教え。
(2)〔religion〕経験的・合理的に理解し制御することのできないような現象や存在に対し、積極的な意味と価値を与えようとする信念・行動・制度の体系。アニミズム・トーテミズム・シャーマニズムから、ユダヤ教・バラモン教・神道などの民族宗教、さらにキリスト教・仏教・イスラム教などの世界宗教にいたる種々の形態がある。」
じゃあ「神」って何?
「人間を超えた存在で、人間に対し禍福や賞罰を与え、信仰・崇拝の対象となるもの。
(1)(ア)宗教・習俗において、信仰・崇拝・儀礼・神話・教義などの中心となる位格・存在。日本の神道や民俗の祭りでまつられる対象、またはユダヤ教・キリスト教・イスラム教などの超越的絶対者。仏教では、仏や菩薩の権現・守護者などとされ、仏とは区別される。
「―に祈る」「―のお告げ」
(イ)哲学で、世界や人間の在り方を支配する超越的・究極的な最高存在。
(2)(ア)日本の神話で、神武天皇より前に登場する人格神。
「天地初めて発(ひら)けし時、高天の原に成れる―の名は/古事記(上訓)」
(イ)天皇。
「大君は―にしませば/万葉 235」
(ウ)人間に危害を加える恐ろしいもの。蛇・虎など。
「韓国(からくに)の虎といふ―を/万葉 3885」
(エ)かみなり。なるかみ。」
なるほどね。なかなか良くまとまっています。要するに、「人間を超えた存在」を信じる心です。
しかし、今私たちは「人間を超えた存在」など信じているのでしょうか。
これを考える時、10年前に起きた事件を考慮しないわけにはいかないでしょう。地下鉄サリン事件です。
私はその日、四国の金比羅宮を参拝して讃岐うどんなど食っておりました。ラジオから流れてくる情報では一体何が起こったのかちっともわからなかったのを憶えています。
さて、オウムなんか気違いカルトであって、例外中の例外だと考えている方もおられると思いますが、果たしてそうなのでしょうか。例えば社会学者の北田暁大さんは、オウムというのは現在の日本社会を覆っているニヒルな空気の先触れだったのではないかと毎日新聞のコラムで書いておられます。当時、宗教学者としてオウムに深く関わっていた島田裕巳さんも、実はあの当時、オウムに出入りしていた人々の殆どは「ネタ」としてオウムをやっているつもりだったと書いています。彼らの多くはどんな社会集団にも帰属したく無い若者たちで、オウムという運動についても当事者であるという意識は無く、なんか面白そうだから「ネタ」として出入りしてみる。そういう集団だったはずが、例の温熱修行でうっかり人を死なせてしまった所から暴走を始めていったのだと。
ここに共通する分析は、何らかの価値観や思想に主体的にコミットしていくのではなく、むしろそれとは逆に、ありとあらゆるものを斜めに見て、ありとあらゆるものに「いや、これはネタとしてやってるんです。本当の私はこんなものどうでも良いんです。」という形で関わる態度がオウムの出発点だったというものです。少なくともそうであるように見られようとする。そんな人々が集まった時に、誰も予期しなかった恐るべき怪物が目を覚ましてしまったという構図です。
何か変ですよね。スピリチュアリティとは、本来「人間を超えた存在」を信じる心ですから、このようなニヒルな態度の対極にあるものです。普通、ニヒルな人が教会やお寺やヘイアウに行って真剣に祈るなんて事はしない。オウムを始めた人々も、最初はネタでお祈りしていたとしたら、何故、結果としてあのような奇妙なカルトが出現したのか。
私はここに、現在の日本社会の置かれた独特の状況を見るような気がします。
私たちは、おそらく、宗教をどう扱って良いのか測りかねているのです。真剣に神仏に帰依するという行為が冗談あるいは良く言って変人としか見られない。宗教というものを理解出来ていないから、社会の中でイレギュラーな存在として片づけておくしか無い。するとさらにそこから一歩進んで、宗教に関わろうとする人は「ネタ」として、言い換えれば自分は冗談で宗教やってますというエクスキューズを用意して、自分はこの宗教を「ヲチしている」だけであり、当事者ではない(だから面白ければ面白いほどいい)という姿勢で宗教に関わっていくことになります。
ですが、そのような「本当の自分とは別の自分がネタとして宗教をやっています」というエクスキューズは、あまり長持ちしません。そうやって集まった人々であれ、集団になると予測もつかなかったような現象が起きます。そして個々の人間はいつの間にかそこに絡め取られていく。例の巨大匿名掲示板に集う人々が「ネタ」として何か下らない事を始めたとしても、そういう動きが一斉に一つの方向に向かうと、もう誰にも止められないものになってしまっているのと同じです。
要するに、オウムを「ネタ」としてやっていた人々、あるいは「ネタ」としてそれを「ヲチ」していた人々(=日本社会全体)は、宗教というものをナメていたのです。宗教をナメて、気安く取り扱い、下らないものとして放置していた結果が地下鉄サリン事件だったと思うのです。宗教とは本来、恐るべき力を持ったものであり、また畏るべきものなのです。気安く取り扱って良い物ではない。
私たちはそれを一度、ニヒルに「ネタ」として処理しようとして失敗しました。しかし北田さんが指摘するように、現在の日本社会もまた宗教というものに正面から向き合おうとせず、相変わらず「ネタ」扱いするか、あるいは何でもかんでも「アブナいもの」として遠ざけるかして済ませています(全く同じ事が「国家」に対しても指摘出来るでしょう。「ネタ」で右翼をやる、「ネタ」で反中国・反韓国をやる。あるいは党派左翼のように「国家」そのものを「アブナいもの」として遠ざけてしまう)。
私たちがこのような姿勢を続けている限り、ホクレアは、それを目指して出航すべき「日本人のスピリチュアリティ」を確認出来ないままでしょう。だからホクレアは日本にやって来られない。
私たちは宗教といかにして付き合っていくべきなのか。ニヒルでやり過ごすのでも、臭い物に蓋をするのでもなく、真剣にそれについて考えなければいけない時期が来ていると思います。