アマチュア(愛を抱くもの)

 さて、プロフェッショナルの対義語はアマチュアということになっている。

 しかし、これは元々の意味を考えると対義語とは言いづらいのだ。プロフェッショナル(誓いを立てた者)の対義語は本来なら「誓いを立てていない者」になるべきだ。ならば何故、プロフェッショナルという概念がアマチュアの対義語と思われているのか。

 それは、プロフェッショナルという概念がアマチュアという概念への対抗概念として考案されたからなのだ。

 アマチュアとは「何かを愛する者」という意味だ。愛。愛だけが彼とその技芸の間を取り持っている。19世紀まで何かの技芸で身を立てるような人物は卑しい存在であると考えられてきた。例えば音楽。技術があるのは専門家だが彼らは所詮は金の為に演奏する連中だ。金などというものとは無関係に音楽を愛する者、アマチュアこそがより純粋に音楽に向き合っている存在だ。そう考えられていた。アマチュアの方が上等な存在だという時代だってあったのだ。

 だから自らの技芸によって報酬を得て生活している技芸者たちは、自らの技芸が神による召命であるという物語を考案した。それが近代的な意味でのプロフェッショナルの出現だ。

 今、ハワイで航海カヌーに乗ることを職業にしている者はどれだけ居るのだろう。航海カヌーに乗ってそれで給料を貰っている、報酬を得ている人間。居るのか? もしかしたら居るのかもしれないが、さほど多くは無いだろう。ホクレアをビッグアイランドからチュークまで連れて行った船長さんはマトソン社の社員だ。だからこう言うことが出来る。ホクレアのクルーをプロフェッショナルと言うことは難しいが、彼らは明らかにアマチュアであると。

 それで何か問題でもあるのか? あろうはずが無い。アマチュアは愛だけを支えにして物事に取り組む者だ。恥じるところなど無いではないか。そもそも技芸の質の上下とプロフェッショナル/アマチュアは無関係なのだ。

 おわかりか。プロフェッショナルとアマチュアは、ともに技芸者だ。そしてそれらのいずれにおいても、金が第一の問題とはなっていない。プロフェッショナルは技芸を通して社会に奉仕する。アマチュアは技芸に無償の愛を傾注する。プロフェッショナルは社会的な存在だ。社会との関わりでプロフェッショナルは可能となる。奉仕すべき社会が無ければプロフェッショナルは存在できない。アマチュアは個人的な存在だ。彼個人と対象の関わり方だけが問題なのだから。神と愛。プロフェッショナルとアマチュアはいずれにせよ、人間存在のごく深いところに直接に繋がる技芸のあり方を示している。

 ちなみに俺はプロフェッショナルとして「ホクレア号航海ブログ」を翻訳している。翻訳という技芸で社会に奉仕する為に、この任務を引き受けている。一方、俺という個人そのものは、航海術のアマチュアだ。航海術に純粋に興味があって、それに関する資料を集めて読み込むことを愛している。航海術と俺の関係は極めて個人的なものだ。他の誰かの為に俺は航海術を愛した-愛している-わけではない。

 さて。ここまで考えて俺は今更ながらに重大な事実に思い至った。俺が「ホクレア号航海ブログ」を翻訳しているのは、英語を読むよりも日本語を読む方が得意な日本語話者たちの為だった。そういう人々が多く住む日本という社会に、自らの技芸で奉仕する。だから翻訳するテキストが航海カヌーとは何の関係も無い、例えば正しいゴミの捨て方とかそういう文書だったとしても、俺の姿勢は変わらない。最善の訳文の追求だ。一方で俺がこのブログを書いたり航海術について勉強したりしているのは、今や純粋に自分自身の航海術への愛の為なのだ。

 いずれにせよ、今の俺の立場から「ホクレアの日本航海を成功させる(あるいは失敗させない)責任」というものは導き出せない。俺が責任を持っているのは、ポリネシア航海協会のウェブログの内容を可能な限り解りやすく、かつ迅速に日本語化するという作業の品質についてだ。A市における正しいゴミの捨て方を翻訳した翻訳家がA市の廃棄物行政の成功に責任を持たないのと同じ意味において、俺はポリネシア航海協会が主催しているこの航海の成功に責任を持たない。当たり前だ。俺はA市の清掃局の職員ではないし、ポリネシア航海協会の会員でもない。また俺の愛はリモート・オセアニアの航海カヌー文化復興の歴史と未来全体に向けられているけれど、それは一方的な愛だ。愛するということそのものがアマチュアである俺の目的だ。俺は愛することを手段にはしない。だから俺は、航海術を自分が愛しているということを理由に誰かに何かをして貰おうとは思わないし、同様に、こうしたごく私的な愛情を俺が俺の内面に持っていることを理由に、誰かに対する責任を負わされることも望まない。それらは愛とは無関係だ。

 もちろん、ホクレアの日本航海の成功を俺は熱烈に望んでいる。だが、同時に俺は自分の立場を弁えている。俺は部外者なのだ。実際に俺は、ポリネシア航海協会やその日本航海における各種の意志決定プロセスについて何の発言権も無いのだから。俺は一市民としてホクレアの日本航海を全力で応援している。しかしそのような俺の行為の全ては俺の自由意思の発露である。使命感とか責任感の故ではない。これは憶えておかねばならない。