広島余話

 いくつか思い出したことなど。

 宮島の大聖院でクルーがご馳走をいただいている頃、私は広島市の紙屋町という場所で夕食を食べていました。過疎の島である周防大島から100万人都市の広島に来たわけですから、なかなか自分の身体感覚がしっくり来ません。この巨大な都市にホクレアが来るということは、どういうことなんだろうか。そこが今ひとつ掴めませんでした。

 私が夕食を摂ったのは夫婦経営のこぢんまりとしたイタリアン・レストラン。ふと思いついて私は店の人に尋ねました。

「明日、広島にハワイからちょっと変わった船が来るんですけれど、ご存じですか?」
「(奥さん)え? そうなんですか?」
「(旦那さん)テレビでやってましたね。」
「見に行ってみたいですか?」
「(旦那さん)曜日がねえ(苦笑)・・・・。」

 まあ金曜・土曜に一般公開で日曜出航ですから、客商売の人は見に行けませんわね。

 ついでにホテルの近くのコンビニでもインタビュー。

「明日、ハワイから変な船が広島港に入るって聞いたことあります?」
「(若い女性店員)今、初めて聞きました。」
「(若い男性店員)いや、知らないっす。」

 こんな感じですかね。一般公開では1400人強の見学者、講演会では170人の聴衆。アットホームなパーティーが2回(25日夕方にもあったそうです)。高校と中学でそれぞれ講演会があり、高校ではかなりウケた(中学校では正直ハズしたとかなんとか)。

 大都市・大人口にホクレアというものを提示する上での難しさというものも見えてきたかもしれません。広島で実際にホクレア歓迎に関わった人の感想では、既存のファン(ガイア・シンフォニーその他でナイノア氏やホクレアを知っている方々)の動員で終わってしまったのかもしれない・・・という意見もありました。

 それから、これはまた別の方のお話しですが、とにかく広島県と有志による会合では両者の意見が全く噛み合っていなかったとのこと。その方のコメントが傑作といえば傑作で「(県側が有志の意見を片っ端から却下するだけだったのを見て)私、ホクレア号って良くわからないで参加してたんですけど、あれを見ていてムカついてきたんですよ。」

 それで結局その方は有志としてかなり良い働きをされた。

 瓢箪から駒? 災い転じて福と成す? どうなんでしょうか。ここは建設的に考えていきたいですね。たしかに行政というものは多くの場合、ピントの置き所が有志とは異なります。事なかれ主義に徹してしまうこともあるし、先例主義で適当に流されることもある。それを目の当たりにすると私だってムカつきます。

 ですが、このホクレアの航海に限って言うと、現場に居る人間の機転や工夫でかなりのことも出来る。これもまた事実です。そしてそうした二つの力(行政のダメだしと現場の工夫)のせめぎ合いの結果が、それぞれの寄港地での成果となって見えてきている。そして、長崎などは行政が1円もお金を出さなかったらしいのですが、それを補ってあまりある感激をクルーに与えたと、これは長崎を見てきた方のお話です。

 私が何の話をしているのか。広島の話をしているようで実は違います。横浜の話です。最終的にホクレアを迎えるのは行政でもハワイ州観光局でもその他有象無象の「関係者」でもなく、横浜港に足を運ぶ私たち一人一人です。横浜でホクレアを迎えようと、その日を心待ちにしている皆さん、工夫と機転が私たちの武器ですよ。

 周防大島や広島を見てきた私からのアドバイスは二つ。とにかくホクレアが置いてある場所、クルーが居る場所に足を運ぶことです。そしてクルーや同じくホクレアを見に来た・クルーに会いに来た人たちと沢山話をすること。この二つの行動を採る人が多ければ多いほど、横浜でも面白いものが生まれてくるはずです。

 そうそう、書き忘れるところだった。実はホクレアが広島に寄港していたのと同時期に、アマゾンの先住民の長老が広島に来ていたんですよ。そんな話を観音マリーナでナイノアさんにしたら「ああ、その方とは平和記念資料館で偶然お会いしたよ。お互いに時間が無かったんで、殆ど話は出来なかったんだけど。」ですって。