コミュニティ懐疑主義

 荒木汰久治さんのウェブログでこんな一節がありました。少し長いですが引用すると・・・

最近よく聞く”チームワーク”とか”コミュニティー”いう言葉が`いたるところから聞こえてくるが、妙に軽く聞こえてしまい少し疑問を感じるのは自分だけだろうか。モロカイとは決してハワイを差す言葉ではないと思うし軽い仲間同士で渡るイベントでもないと思う。日本の中にも、そして自分自身の心の中にも存在する場所こそが自分にとってのモロカイだ。どんなにアップウインドでも諦めず漕ぎ続ける姿勢さえあれば日本の海でもモロカイを渡ることが出来る。目に見えないライバル選手の背中を追いかけることができる。派手な世界を離れここ沖縄に来て自然と繋がる人の輪がそれを教えてくれた。

 おっと思ったのは、「コミュニティ」という言葉への疑問を素直に表現しておられるところ。ちょっと前にどこかで鷲田清一さん(哲学者・大阪大学学長)がやはり、「コミュニティ」という言葉が最近あまりにも特権化されているとボヤいていたのを読んだ記憶がありますし、私自身も市民会議で「コミュニティ作りを目的にするのではなく、何故コミュニティ作りが必要なのか、コミュニティ作りをする目的をきちんと示す必要があるでしょう」と発言したことがあります。

 たしかにコミュニティは人間社会には無くてはならないものです。また、高度成長期のような勤務先コミュニティ中心の社会構造が成り立たなくなった現在、そして地縁や血縁によるコミュニティが人々の活発な移動と生活スタイルの変化によって維持しづらくなったこともあって、新たなコミュニティ作りが日本社会の課題であることも否定はしません。私自身も、南山論争によるコミュニティの分断を大問題と考えており、それに対処すべく動き出しているところです。

 でも、荒木さんの言いたいことも非常によくわかる。

目に見える距離で群れることで得られる安心感よりも、孤独で自分と向き合う生き方を追求する仲間は実は都会の中にも、自分の周りの田舎にも確実に増えている。

 私は「群れる」だけでは真に有用なコミュニティは生まれないと考えています。人が集まっているだけではなく、集まった人それぞれが「集まっていることに対する責任」および「一緒に集まっている人々への責任」を引き受けていなければいけない。
 人間が集まって何かするのは、集まらないと出来ないことをするためであったり、集まった方が都合が良いことをするためですが、その際には集まってきた者それぞれがなにがしかをコミュニティの為に差し出さなければいけません。今現在、知力や体力や経済力が優れている者は、それぞれ余剰の力を。将来的にそうした力を手に入れる者は、その時になったら余った力を。現在も将来も非力である者は、微笑みという形でコミュニティへの祝福を差し出す。

 「なるべく自分からは何も差し出さないで、なおかつ可能な限り多くのものをコミュニティから獲得しよう」という発想の方もたまにおられますが(日本共産党の党員さんでそういう人生観を堅持していらっしゃる方も見たことがあります。不思議なことです)、そういう方はPersona non grata扱いをされても致し方ないですね。

 さて。荒木さんのコミュニティはあの小さな航海カヌーで中国を目指そうという方々ですから、単に群れていることに満足するような人間ではなく、それぞれが一騎当千の精鋭たらんという志を持っていなければならないでしょう。そういう孤高のコミュニティを作ろうとしている荒木さんからすれば、現在の日本のやや安易な「コミュニティ」が表層的なものに見えるのも当然かと思います。コミュニティに参加することの責任。あるいは「何の為にコミュニティを作るのか」という、コミュニティの根本理念を問うことの大切さ。これらを見落とした「コミュニティ」では、荒れた海域に突入した途端、コミュニティそのものがバラバラに壊れてしまうでしょう。鍛え抜かれたコミュニティだけが嵐を乗り越えられるのだと思います。順風満帆、イケイケモードの時には沢山の人が「応援するよ」「一緒にやろう」と言って集まってきますが、口先だけの「応援」ではなく一緒に最前列に出て風雨を受けてくれる人は少ない。逆に、いざ困難に直面した時に振り向くと、いつの間にか居なくなっている人は多い。

 それじゃあただの野次馬ですぜ(笑)。ね。コミュニティを鍛える為には、敢えて荒木さんのように「軽々しくコミュニティなんて言うんじゃないよ」と苦言を呈してみることも、これからは必要なのかもしれませんね。

 折しも今、イタリアでは100周年を迎えたジロ・デ・イタリアが開催されていますが、23日間、3455.6キロメートル先のゴールを目指して走る選手たちは、それぞれが一騎当千の、それこそ日本国籍を取ればいきなり日本選手権のチャンピオン候補になるような怪物たちの集団です。その怪物たちが、チームの目的の為に己を捨ててひた走るのがグラン・ツールの面白さであり、偉大さです。
 ランス・アームストロングやイヴァン・バッソ、ダニーロ・ディ=ルーカのような超生命体クラスの選手たちでさえ、アシスト選手たちを失えばひとたまりもありません。アシスト選手たちは、時にはその日限りでのリタイヤを覚悟した無茶な走りをしてでも、エースを守り、チームを最終ゴールに向かって送り出します。エースの為に超級山岳を無理なペースで登り、あるいは平地を延々と引き続けて千切れていくアシスト選手たちほど格好良いアスリートを私は知りません。仲間たちの為に体を張れない男にグラン・ツールを走る資格は与えられないのです。

 グラン・ツールを走る9人の選手たち、そして彼らを支えるコーチ、メカニック、マッサージャーたちのコミュニティに、私は鍛え抜かれた玉鋼の刀身のようなコミュニティを見ます。