沖家室の寄り合い(その5)

イメージ 1

イメージ 2

 宴は続いていますが、かむろ針職人の松本さんがずっと飲まずに待っておられるわけで、そろそろデモンストレーションに入っても良いのではないでしょうか。そんなようなことを私からも申し上げて、それではと一同は仏間に移動。いよいよ針作りの技の披露です。といっても狭い空間なので、私は遠慮して後ろから見ていました。

画像でおわかりのように、ナイノア氏の顔つきは真剣そのものです。通訳は内野さん。内野さんも松本さんの針作りには夢中で見入っておられましたね。デモンストレーションが終わった後も松本さんと話し込んでおられて。私は内野さんに声をかけて、松本さんとのツーショットを内野さんのカメラで撮って差し上げました。さすがプロのカメラマンだけあって高級機に高級レンズ。正直、重かった・・・漬け物石みたいに・・・・。

クルーは松本さんの技に魅入られていますが、ふはははは。私は宴席の間中、松本さんの隣に座ってほぼ独占状態だったのですよ。オイシイとこを頂かせてもらいました。

「いつから針を作っておられるんですか?」
「41歳の時ね。それで今が81。だから40年ですね。」
「結構始められたのは遅かったんですね。」
「島を出とったからね。」
「何をしてらしたんですか?」
「色々とやりましたよ。氷川丸ってあるでしょ。戦前に6隻作られた船の一つね。トラック諸島なんかに行っとって、他の船は沈んだけど、あれだけは残った。あれのエンジンを修理したこともありますよ。」
「え・・・ええっ? ちょっと待ってください。氷川丸ってあの氷川丸ですよね?」
「そう。病院船になった・・・。」
「あれのエンジンを直せたんですか?」
「エンジンなら何でも直せましたよ。一目見れば解ります。これはレシプロ、これはタービン、これはディーゼルちゅって。今でも私の漁船のエンジンは一度も壊れたことが無い。壊れる前に解るんです。そんで手入れしてやる。」
「車のエンジンも?」
「車はやったことないけど、飛行機のエンジンなら直しましたよ。」
「ひ、飛行機!? ・・・何でそんなにエンジンに詳しいんですか?」
「航空学校に行っとったでね。」
「航空学校って陸軍航空隊の?」
「そう。」
「陸軍航空隊が氷川丸のエンジンを直したんですか?」
「あれはもっと前。陸軍に入る前は日立造船におったんですわ。工業学校行ったからね。」
「凄い学歴ですね。」
「どっちも中退だけどね(笑)。氷川丸は大阪の日立造船に年に1度入ってきたから、そこで直しました。昭和16年から18年ですね。」
「陸軍にはいつ入られたんですか?」
「昭和19年の8月ですね。その時、技術官の幹部候補生を陸軍が募集したんですわ。そんで22000人くらい志願者がおって、私は合格した数十人の中におった。」
「はあ・・・・(もはや呆然)。」
「ほんで航空学校で授業があるでしょ。私は教官より詳しかったから、授業中に寝てました(笑)。」
「怒られないんですか?」
「起こされて質問されても全部答えたからね。」
「しかし良く生き残れましたよね。」
「私は使える人間だっちゅうんで、内地に置いておかれたんですわ。」
「戦争が終わったらすぐに島に戻られたんですか?」
「終戦前に腰を怪我したんです。それでしばらくは傷痍軍人の恩給で生活しとりました。その後は時計の修理なんかもしました。」
「時計って掛け時計ですか?」
「腕時計です。」
「そんなものまで直せるんですか?」
「直せます。ペラも自分で直しますよ。」
「ペラって・・・ああ、スクリューか。」
「日立造船で氷川丸のスクリューも叩いて直しました。スクリューってのは真鍮だから、すぐに曲がるんです。ほんで曲がるとすぐにガタガタガタって凄い振動が来ます。それで壊れたって判る。」
「漁船のスクリューもご自分で?」
「そう。叩いて直します。その方が早いし、やっぱり人に頼むとどうしても仕上がりがあれだから。自分でやれば完璧に直せますでね。」

この後も周囲で飲んでいた漁師のおとうさんたちと松本さんで、漁や船の話で盛り上がっていたわけですが、ちょっと全部はノートに書ききれませんでした。興味がおありの方は、沖家室に実際に行かれて波止場でおやじさんたちに声をかけられると良いです。酒かなんか1本持って行けば絶対に色々話してくださいますよ。

ともかく、松本のおやじさんはただ者じゃなかったんです。生まれついての技術屋さんですね。ちなみに針作りのデモンストレーションが終わったところで、若い漁師さんが松本のおやじさんの所に相談に来てました。何でもスクリューを曲げてしまったので、おやじさんに直してもらいたいという話。松本さんは曲げた状況を詳しく聞いて、どんな道具が要るものか考えておられます。まだまだ現役バリバリのエンジニア、それが松本のおやじさんのもう一つの顔のようです。