ポリネシア航海協会の今回のホクレア日本航海のテーマは日本人移民の功績顕彰となっておりますね。それとカラカウア王の日本立ち寄りを記念して。
では、記録上最も早くハワイ諸島の土を踏んだ日本人はどこの誰だったかご存じでしょうか。
実は、これは幾つかの史料に記されているので確実な話なのですが、現在の広島県東広島市安芸津町木谷の船乗り6人と山口県岩国市の船乗り2人です。1806年のことです(日本側史料による。アメリカ人船員の手記では1809年となっている)。江戸時代ですね。明治維新より相当に前。ヨーロッパはナポレオン戦争の真っ直中です。日本は11代将軍徳川家斉の時代。松平定信の寛政の改革が終わってからしばらくの後。もちろん鎖国中。
事の次第はこうです。この年の1月7日、大坂の船主の持ち船「稲若丸」に安芸の国の船乗りが8人(22人説もあり)乗り込んで、江戸から大坂を目指しました。ところが遠州灘を航行中に時化に見舞われてしまいます。船はどんどん沖に流されて日本列島から遠ざかる。船員たちは神仏に祈りを捧げた後、おみくじを引きました。その結果、船の帆柱を切り倒す(これ以上風で流されないため)ことを決定。船は自力で航走する能力を失い、あてどもない漂流を続けます。
船が救助されたのは3月20日のことでした。当然ながら船内の食料は食い尽くされ、釣った魚と雨水でしのいだとされます。船員22人説の史料では、この間に死んだ仲間の肉を食ったともされますが、真偽のほどは不明。
稲若丸を救助したのは中国からアメリカに戻る途中のテイバー号という船。船長はコーネリアス・ソウルという人物だったとされます。ソウル船長は稲若丸から8人の乗組員を救助。オアフ島に立ち寄ってカメハメハ1世に彼らのことを託しました。8人はカメハメハ1世に歓待され、8月までオアフ島で過ごします。8月になってアマサ・デラノウという人物(アメリカ人)がオアフ島に立ち寄り、彼らをマカオまで連れて行き、さらに親切にも長崎との間にオランダ船の航路があるジャカルタまで、8人の船賃を出して船に乗せてくれました。
ジャカルタに着いたのは翌年の1月21日。しかしここで2人がマラリアで命を落とします。残った6人は5月17日にジャカルタを出て長崎に向かいますが、この船旅の間にさらに3人が病死。生きて長崎に辿り着いたのは3人だけでした。
さらに長崎についてすぐに1人が病死、1人が自殺。最後まで生き残った善松という人物が故郷の木谷に帰れたのは11月29日のことです。しかし、残念ながら善松も翌年の6月末に病死。
・・・・・なんとも無惨な幕切れではありますが、しかし身一つで漂流していた彼らを救ってハワイに送り届けたソウル船長、ハワイで彼らを歓待し、泣いて別れを惜しんだハワイ人たち。彼らをジャカルタまで送り届けてくれたデラノウ船長。みんな良い人じゃないですか。この話はもっと知られて良いと思うなあ。特に広島。ホクレアの寄港地。私が東広島市長だったら、稲若丸の乗組員たちを助けてくれたお礼を言いに行きますね。