村の歴史と茶道具的アウトリガー・カヌー

 船団はポンペイを出てチュークに向かいました。航程表も6日付けで更新されましたが、今のところパラオをカットするということにはなっていないようです。

 さて、ポンペイではホクレアのミクロネシア航海前半担当クルーが後半担当クルーに交替しましたね。そしてカイウラニさんの航海日記によれば、月曜の午前中にカピンガマランギ村を訪問したとのこと。

 カピンガマランギ村。ポリネシア人の住まう集落。

 それにしても何故そのようなものがミクロネシア連邦の首都近郊に存在しているのでしょうか。ある部分の説明はされていますが、ある部分の説明は未だというところです。判っていないのは、そもそも何故ポリネシア・トライアングルの外に点々とポリネシア文化の島があるのかということ。ミクロネシアやメラネシアの海域に突如そのようなものがある。カピンガマランギ島なんかやたらと西にありますよ。経度で言うと南鳥島と変わらないですからね。掛け値無しにポリネシア文化の西の端だ。

 ラピタ人が東を目指す過程で千切れていった後続集団なのか? いや、そうではないらしいのです。大体、ラピタ人やポリネシア人の移動ルートからかなり外れている。カロリニアンの祖先が移動していったルートからもおそらく外れているでしょう。島づたいでソロモン諸島からミクロネシア海域に向かうならキリバスからマーシャル諸島に渡った方がずっと簡単ですもん。まさに絶海の孤島。

 言語的にはポリネシア語の中でもサモア語系。つまり西ポリネシアですね。ポリネシア人がマルケサス諸島やタヒチ、ハワイ、ラパ・ヌイ、アオテアロアなどに向かう以前のポリネシア文化の流れを汲んでいる・・・のだろうと思われます。

 何時、どこから、どうやってカピンガマランギ島にポリネシア人が渡ってきたのかは判っていません。とにかく彼らはそこに居た。というか今現在も居ます。

 ですが、20世紀の初めにある事件が起こりました。1916年。カピンガマランギ島を大干魃が襲った。普通、島を干魃が襲うと付近の島に救援を求めるものです。カロリン諸島ではそうしている。ですが、何せラパ・ヌイなみにご近所さんに乏しい島ですからね。なかなかそういうわけにもいかなかった。1918年までに島の人口の3分の1が死んだ。そこで生き残った島民のかなりの部分がポンペイに移住したわけです。今やポンペイのカピンガマランギ村はカピンガマランギ島と同じくらいの人口を抱えているそうです。

 ところでカピンガマランギ島にもまた独特のカヌーがあるんだそうですよ。アウトリガー部分の細工が繊細で美しい逸品。

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 多くのアウトリガー・カヌーが船体とアマ(フロート)を桁材で直接繋いでいるのに対して、このマニアックな構造はどうですか。

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 よく見るとわかりますが、これ、まず船体の横に梯子状のアウトリガーを組んで、そこから今度は弓なりにカーブした桁材と直線的な桁材を複雑に組み合わせてアマに繋げているんです。茶道具みたいな美意識を感じます。これは良い。

 この写真のカヌーは1997年にポンペイ州歴史保存局がオレゴン大の研究者に依頼して、カピンガマランギ島での建造過程から記録を取った船だそうです。現在はコロニアにあるNahnsehleng Maritime Centerという博物館に収蔵されているとか。