今風に言えばニートちゃうか?

 洗濯物を干していて思ったのです。ナイノア・トンプソン、若き日のナイノア・トンプソンって実はあれちゃうかと? 最近日本でも若者いじりの必須アイテムとしてすっかり定着したニート。本来の意味はNOT IN EDUCATION, EMPLOYMENT OR TRAINING(学校に通っておらず、雇用されておらず、何らかの訓練を受けているわけでもない人)で、この概念を考案した国である英国では、16歳から18歳という限定された年齢層の状況を考察する為の単なる分類、日本であれば「その他」とでもしてしまいそうな分類項目の名前に過ぎませんでした。その中には就業準備や入学準備者も一定数含まれている、本当にネガティブでもポジティブでもない概念。

 それが日本に入ってくる時に何故か「働きもせず学校にも行かずに親のスネを囓っている穀潰し」というイメージにすり替えられ、格好の憎悪の対象として「弛んだ若者はボランティア団体か自衛隊に入れて性根を叩き直せ」という、ニートバッシングとでも言うべきものが巻き起こった。その内情と顛末は本田・内藤・後藤『ニートって言うな!』に詳しいわけですが、お三方の必死の抵抗敵わず、本邦でニートと言えば穀潰しの別名として、定着しておりますな。

 そのニート。

 ウェイファインディングの修業に入る前のナイノア・トンプソンってまさにそれだったんじゃないっすか? 違う?

 たしか巷間伝えられている彼のこの時期の履歴書は「高校中退後、カヌー・クラブ<フイ・ナル>でぶらぶらしている時にハーブ・カネに声をかけられ、新造なったホクレアのパドリング実験要員としてスカウトされる」。

 まさに元の概念そのもののNOT IN EDUCATION, EMPLOYMENT OR TRAININGではないですか。ただのヒマそうなアンちゃん。もしかしたらピザ屋でバイトくらいしていたのかもしれませんが、それにしたって「フリーター」。今の日本なら軽蔑と憎悪の対象でしかありません。実際、『星の航海術をもとめて』でも、それとなく著者が当時のナイノアの置かれた状況を仄めかす部分があります。例えば修行中のナイノアが「この航海を終えたら自分はどうすれば良いんだろう」という不安を吐露し、著者が「君は立派なウェイファインダーになっている。だが、ウェイファインダーの求人は無いんだよな」と応じる場面。著者はここでナイノアに申し訳ない気持ちを持っていたと言います。何故か。

 ウェイファインディングの修業をしている期間というのは、雇用市場でのナイノアの価値を激減させるものだったからではないでしょうか。日本やアメリカのような社会で上に行こうと思ったら、若いうちからキャリアを積み重ねて、履歴書の職歴の覧を充実させなければならない。「契約社員」「アルバイト」「家事手伝い」「珍走団で暴れていた」などは、若いうちの一瞬ならともかく、20代も半ばに差し掛かろうかとなると、「クズ人間」扱いされてしまう。酷い話ですが。

 結局ナイノアはハワイ社会に隠れもない文化英雄として一発逆転でVIP入りを果たします。しかし、それはナイノアも想像の外だった展開でしょう。彼は当初、人生を捨てる覚悟だったのかもしれません。『星の航海術をもとめて』の著者も、彼のウェイファインディング修業はリスキーな選択だったと明記しています。それは海で死ぬリスクという以上に、社会からドロップアウトして最底辺で生きていかざるをえなくなるリスクだったのかもしれません。

 さて。内藤朝雄さんはこんなことを言っています。「お釈迦様だってイエス・キリストだってニートだ」。

 そしてナイノア・トンプソンもまたニートだった。おそらく。

 社会を揺るがすような偉大な人間は、ニートの中からも生まれて来る。ニートが必ず偉大な人間になるわけではないですが、社会の中にニートの存在を許さないような社会は、そういった偉大な人間の供給源が一つ少ない社会だとは思います。ニートを憎まず蔑まず、ニートや元ニートを人間として扱う。私が考える「美しい国」の必須条件がこれですよ。