『星の航海術をもとめて』あらすじ

1:Convergence(収斂)
 プラネタリウムの解説員をしていた著者のもとを、一人の先住ハワイ人系の青年が訪ねてくる。彼、ナイノア・トンプソンは、彼の祖先である古代のポリネシア人が用いた天測航法の技術を現代に復活させるという大志を抱いていたが、天文学については素人に近かった。著者は彼に月の動きから教えていくことになった。

2:In the Beginning(はじまりの神話)
 ポリネシアの創世神話がかいつまんで語られる。かつて大地の女神と天空の神はお互いに愛し合うあまり、常に寄り添っていた。彼らの子ども達は天と地の間が狭すぎることに悩み、二人の間を引き 離そうとして力を合わせ、ついに天と地の間に空間を作り出した。子ども達はそうして創り出した空間に、星々をぶら下げていった。最も明るい星(シリウス)をタヒチの上に、青白く燃えるスピカをサモアの上に。それでは、北の空に輝く明るい星(アルクツルス)の下には何があるのか? 星々と島々を結びつけたこの創世神話は何を意味しているのだろうか?

3:Polynesia―Watery World(ポリネシア~水の世界~)
 ポリネシアは、太平洋の半分を占める広大な水の世界である。それでは、この世界に人類はどう やって進出していったのだろうか。これまでに二つの学説が唱えられてきた。船で沖に出ていて偶然に流されたか、あるいは古代の人類が自らの意志と技術によって、ポリネシアの島々に到達したかである。この二つの学説の間の論争は延々と続き、お互いに譲る気配が無かった。航海カヌー「ホクレア」は、この論争に決着を付ける為に計画された船だった。もしも古代の船と同じ性能を持った船で、現代の航法機器を一切使用せずにハワイとタヒチの間を航海出来たならば、古代人にもそれは可能なはずである。

4:Tahiti, 1976(タヒチ、1976年)
 こうして建造されたホクレアは、ミクロネシアから呼ばれた航法師マウ・ピアイルックの協力もあって、無事にハワイからタヒチまでの航海を成功させ、長年続いた論争に決着を付けた。この航海の成功に最も強い影響を受けたのが、ナイノア・トンプソンだったのだ。

5:Kealaikahiki(ケアライカヒキ)
 1977年、ホクレアはハワイ諸島を巡る実験航海に出た。ナイノアもこの航海に参加していた。マウ・ピアイルックはハワイ諸島からまず西に進み、そこからタヒチを目指す航路を使ったが、一方でハワイ諸島の東側には「ケアライカヒキ」(タヒチへの途)と呼ばれる海峡がある。古代から伝わるチャントによれば、古代のポリネシア人はこの海峡を通ってハワイとタヒチの間を行き来していたはずである。果たしてケアライカヒキ海峡から発した航海カヌーは、タヒチへのルートを取れるのだろうか。

6:High Wind, High Hope(希望、そして烈風)
 ケアライカヒキ海峡を通る実験航海は成功した。しかしナイノアは、この実験航海で我流の天測航法が全く役に立たないことを痛感し、著者のプラネタリウムに通いはじめる。ナイノアはプラネタリウムを利用した学習で、見る見る天文学の知識を身につけていった。彼は、プラネタリウムの映し出す夜空から、自分の経度と緯度を短時間で暗算出来るまでになった。こうして1978年、ホクレアは再びタヒチへ向けて出航した。しかし、折からの強風に煽られたホクレアはモロカイ海峡で転覆し、救援を呼びにサーフボードで漕ぎ出したナイノアの親友エディ・アイカウは、命を落としてしまった。うちひしがれたナイノアは、それでもプラネタリウムでの研究を続けていた。

7:Stellar Clues(夜空の道標)
 ナイノアは西洋天文学の知見を利用し、独自の航法術を編み出していった。ナイノアはまず夜空を半球と考え、星々はその半球上で輝く点と捉えた。彼はそれらの星々から方角を割り出す為の「星の羅針盤」を考案した。さらに彼は二つの星の組み合わせや、月の形から方角を割り出す方法も見つけ出した。加えて彼は天頂部を通る星の種類や北極星の高さ、ある二つの星の成す見かけの角度などから、緯度を割り出す方法も考案していった。しかし、実際の夜空はプラネタリウムと違い、雲や雨によって観測出来ない時間帯も少なくない。プラネタリウムで夜空を憶えるだけでは、古代人のような航法技術は身に付かないのだ。ナイノアには師匠が必要だった。しかし、古代のポリネシアの航法術を彼に教えられる人物はもはや存在しなかった 。

8:Journey by Starlight(星あかりの旅路)
 この章では、前の章で触れたナイノアの天測航法術が、ハワイとタヒチの間の実際の航海ではどのように機能するかが、ハワイとタヒチの夜空の比較によって説明される。

9:Two Men, Two Ways(師弟、二つの方法)
 1979年の春、意を決したナイノアは、マウ・ピアイルックに弟子入りを志願する為、ミクロネシアへと飛ぶ。ナイノアはサイパンでサタワルへの航海の準備をしていたマウに会うが、マウはナイノアに言質を与えないまま、サタワルへと出航してしまった。しかしその4ヶ月後、マウは突然ホノルル空港に現れ、ナイノアの弟子入りを許可する。彼らはプラネタリウムに籠もって、星の見方から順に学んでいった。またマウは潮の流れを知ることの重要性をナイノアに伝え、ナイノアはボートで沖に出ては、これを学ぶようになった。ナイノアは、マウの航法術が西洋の合理的世界観とは異なる世界認識に基づいていることに戸惑いつつも、貪欲にこれを吸収していった。

10:Into the Smoke(靄の中)
 マウのもとでの修行を進めていったナイノアは、ついに曇天の海上での実地訓練を開始する。曇天下では星は見えないが、長い航海の間には必ず星を見ることが出来ない時期があり、航法師は星以外の手がかりから方向を見極めなければいけないのである。モロカイ島沖での最初の訓練で、ナイノアは波の方向を頼りに、誤差10度未満で方角を割り出してみせたのだった。

11:Increasing Momentum(胎動)
 1979年12月、ホクレアは三度目のタヒチ航海へ向けて、着々と準備を整えつつあった。これまでの航海で痛んだ部分は修復され、またマウのアドバイスによって細部に微調整が施された。週末ごとにホクレアは訓練航海を行い、ナイノアは航法術を実地で磨き上げていった。1月末、ホクレアがタヒチ航海に向けて最後の重整備をする為に乾ドック入りすると、ナイノアはタヒチの夜空を学ぶ為にタヒチへ飛んだ。
(続く)