グローバルなエスニック・スポーツ

 世界には、地付きのスポーツがあり、またそういったスポーツをみんなで集まってやる大会があります。例えばスコットランドのハイランド地方の「ハイランド・ゲームス」とか、インドのパンジャブ地方の「オリンピック」。綱引きだの丸太投げだのから、果ては「口でどれだけ思い物を持ち上げられるか」だの「小麦粉積み下ろし競争」まで、IOC様やFIFA様のような大組織が仕切る大国際競技会とは正反対の、徹底的にドメスティックな競技会です。

 中にはアイルランドのGAA(ゲーリック・フットボールやハーリングなどアイルランド地付きのスポーツを仕切る組織。超巨大スタジアムを持っているのにサッカーやラグビーの代表チームには絶対貸してくれないらしい)のように、お金持ちでしかも排他的な体制を作っている場合もありますが、多くはノンビリ長閑にやっていますね。仲間内でちょっとした賞金を出し合って、地域の絆を再確認する為にやっている。

 日本にも相撲や柔道のような地付きだったはずの競技がありますが、柔道なんかはもう完全に庇を貸して母屋を取られた状態ですし、相撲でも現在最強力士として無敵を誇っているのはモンゴルから来た朝青龍さん。その前にはポリネシア系力士が角界を席巻しとりました。

 何でそうなったのか。答えは簡単です。国際化したから。

 柔道は世界に普及させて世界的な競技にしようとしたから、当然の帰結として競技組織も世界的になって、日本は単なる加盟国に過ぎなくなった。相撲は強い奴ならどこの人間でも入れるようにしたから、わざわざ日本にまで来るような素質のある人間が上に行くようになった。

 別に悪いとは申しません。特に朝青龍さんなんか、横綱審議会の「識者」のみなさまが湯気吹いて悔しがるくらい強いですからね。東京都教育委員としての内舘牧子氏のやりように強い憤りを感じ続けている私はもう、内舘牧子が嫌がるというだけで朝青龍さんに勝ち続けて貰いたいくらい。

 さて話をポリネシアに向けましょう。ご存じかと思いますが、ポリネシアでは、近年、伝統のアウトリガー・カヌーを用いたパドリング競技が盛り上がっているようです。その頂点にあるのがハワイのモロカイ海峡で行われる「モロカイ・ホエ」や「モロカイ・チャレンジ」ですね。航海カヌー文化復興運動についての情報を拾う目的で色々な土地のウェブサイトを見て回った感じでは、だいたいどこの地域にもアウトリガー・カヌー・クラブがあって競技をやっている。

 そしてまたこのアウトリガー・カヌー競技は、地域共同体の再建という役割も担っている。タヒチからアオテアロアへとハヴァイキヌイ号で渡ったマタヒ・ワカタカ・ブライトウェルさんがその後、アオテアロア北島のマオリ・コミュニティで取り組んだのがアウトリガー・カヌー競技の振興であり、1980年代後半から始まった(つまりごく最近)この運動が、現在ではアウトリガー・カヌー競技界でも最強クラスのナショナル・チームを「モロカイ・ホエ」に送り込むくらいになっているわけです。

 ですが、ポリネシアのアウトリガー・カヌー競技が向いている方向は一つではありません。域内では先住民や地域のコミュニティ形成を志向している一方で、域外では同じくポリネシア発祥のスポーツであるサーフィンのように、国際的なマリン・スポーツとしても広まっていこうとしています。

 その行く末がどうなるのかは、興味深い所です。世界に広めようと思ったら、エスニック色は脱色していかなければならない。競技スポーツならば、強い奴なら誰でも上に行けなければいけません。ルールだって、一端国際化したら、いくら発祥地だってもはや好きには出来なくなる。日本がいくら抵抗したって多数決でカラー道着は採用されてしまうし、サッカーの国際ルールを決めるのは発祥の地イングランドのサッカー協会(Football Association:発祥の地なので国名が協会名に含まれていない)ではなくて国際サッカー連盟(FIFA)になる。

 あるいは、航海カヌーだって、今後もしかしたら競技スポーツ化するかもしれません。ヨットの世界一周みたいなのは無理でしょうが、1週間くらいの航程を伝統航海術で渡る早さを競うなんてのは充分に考えられます。既に昨年進水した「ホクアラカイ号」で、ポリネシアの遠洋航海型ダブル・カヌーにも量産の目処は立っているわけですからね。今後、伝統航海術を学んだ若者たちが各地に増えていったとしたら、それじゃあちょっと集まってみるか、みたいな話にならないとも限らない。

 その先には、一体何があるのでしょうか。現在のところ、航海カヌー文化というのはオセアニアの海洋民たちのアイデンティティ回復運動の核の一つです。しかしその一方で、彼らは航海カヌー文化を分け隔てなく外部にも提供しようとしています。

 これは、どう考えても相互に矛盾する方向性のような気がするのです。

 今のところは良いですよ。今のところ、航海カヌー文化を学ぼうなんて思いつく人は、それがオセアニアの文化の中でどれだけ重大な意味を持っているものなのか、充分に理解している人だけでしょう。ですが、仮に航海カヌー文化復興運動が今後、順調に伸展していけば、どうしたってその外縁部には、航海カヌー文化復興運動を押し進めた原動力が何だったのかを「気にしない」人々が現れてくるでしょう。

 その時、果たして何が起こるのか。

 私は、個人的には、外部の人間に開かれていないスポーツがあっても良いと思います。外部の人間はあくまでもゲストとしてしか参加出来ないスポーツ。ある種の社会においては、必要なものでしょう。

 航海カヌー文化はこの先、どこへ向かうのでしょうか。イングランドのパブリックスクールの荒くれ小僧たちのバカ騒ぎとして19世紀に形を為したサッカーやラグビー。江戸時代に発達した各種の柔術を総合し、明治時代に出来上がった柔道。これらの近代スポーツと、ある民族のアイデンティティの核心に関わるものである航海カヌー文化とでは、重みが違います。

 現在のサーフィンがそうであるように、グローバルなスポーツであり、かつローカルでエスニックなスポーツでもあるという、二面性を備えた存在に、航海カヌー文化もなっていくのでしょうか。