宇和島を出てからのホクレアを見ていて私が思い出したのは、1995年にテ・ヘヌア・エナナ(マルケサス諸島)からオアフ島の間で行われた集団航海の中のエピソードでした。
この航海にはハワイからホクレア、マカリイ、ハヴァイロアの3艘が、またラロトンガ(クック諸島)からテ・アウ・オ・トンガとタキトゥムの2艘が、そしてアオテアロア(ニュー・ジーランド)からテ・アウレレが参加していました。合計6艘の航海カヌー船団です。うち5艘にはモダン・ハワイアン・ウェイファインディングをハワイで学んだ人間が搭乗して航法を行っていました。ナイノア氏(当時はまだポリネシア航海協会会長ではなかった)はホクレアに搭乗して船団全体のオブザーバーのような役割を担っていました。
さて、拙訳『星の航海術をもとめて』を読んでいただいた方ならご存じかと思いますが、ハワイとフランス領ポリネシアの間を帆走で移動する場合、赤道無風帯というエリアでどれだけ風が吹くかが航海全体の所要日数を大きく左右します。この一帯は一定した風が吹かないので、帆走はどうしても停滞してしまうのです。場合によっては一日かかって数キロしか移動しないなんてこともあります。
この航海のルポルタージュであるベン・フィニー著「Sailing in the wake of ancestors」の115頁をちょっと訳出してみますよ。
「ここでナイノアはおもむろに爆弾を破裂させた。彼自身ホノルルからの連絡で知ったばかりだったのだが、5月19日に予定されていたホクレアとハヴァイロアのシアトルへの輸送が5日間早まり、5月14日になったというのである。彼は用心深い人物なので、常に最悪のケースを想定して物事を進めるのであるが、その彼は私たちに次のように話した。すなわち、速やかに赤道無風帯を抜け、しかもその後も順調に風が吹かなかったならば、船団は5月14日のホクレア・ハヴァイロア積み出しに間に合わないだろうと。そうなると、両船によるカリフォルニア・アラスカ航海は中止せざるを得なくなるのである。
ナイノアはこのカリフォルニア・アラスカ航海の文化的な重要性について説明した後、各航海カヌーの船長およびクルーに、赤道無風帯を曳航あるいは機走によって通過するという選択肢を検討して欲しいと申し出た。もちろん最終的な判断はそれぞれの船長にお任せするが、自分としては6艘が揃って航海を続けることを望むとも。船長たちはそれぞれ自分の船のクルーと相談した後、ナイノアに返事を送った。「我々は事態の深刻さを理解しており、貴殿の要請を受け入れるつもりである。」テ・アウレレやタキトゥムの船長などは、既に船外機を始動したとも言い添えたのだった。」
いちマニアとしての見解ですが、たしかにポリネシア航海協会は天候や海況が悪かったり必要な装備が整わない場合は、どれだけでも出航を先送りする人たちですけれども、これはあくまでも「安全第一」という行動原則に従っているだけだと私は解釈します。ですから重要な意味合いがある寄港予定地であっても、特に安全上の理由などがあれば平気で彼らはカットして先に進みます。だってミクロネシアの航海術の伝説上の源郷であるプンナップ島を彼らはパスして来たんですからね。