大学3年生の時だったと思いますが、ゼミ発表をしていたら、修士課程の院生が、私のレジュメの用語の使い方にモゴモゴとケチを付け始めたことがありました。
たしか長老派教会だかプレスビテリアンだかの件だったと思います。長老派とプレスビテリアンは厳密には同じものではない、とかなんとか。じゃあ何が違うのか教えて下さいと聞き返しても上手く答えられない。最後は青木康先生が、ここはどっちでも良いんじゃないのというような形で終わらせたんだっけな?
※Presbyterianを普通は長老派と訳すので、今だに彼女たち(二人いた)が何を言いたかったのかわからない。たしか一人は南山女子高校卒で獨協大から立教の大学院に入って、今はどこかの教授をやっておられるはず。でも名前が出てこない。色々な意味で悪い人ではなかったです。
研究者の悪い癖の一つだと思うのですが、語彙の使い方や語義についてやたら細かい知識を持っていて、語りだしたら止まらなくなるということがあります。ただし、全ての研究者が備えている悪い癖ではないですよ。
この悪癖、今風の言い方をすると、同業者間の「マウンティング」の道具です。お前はこんなことも知らないのかー、というやつです。
ですが、多くの知識はウェブ検索によってある程度は補完出来る時代ですので、語彙/語義のウンチクを長々と披露するだけの研究者の有り難みは日に日にすり減っているというのが私の見解です。
研究者が素人に対して価値を提供出来るのは、相手が必要としている知識を提供する時です。ではその「相手が必要としている知識」はどのようにして提供したらより価値があるのか。
私はハイデガーが使った用語のZuhandensein(手元存在)と Vorhandensein(手前存在)という区別を意識するようにしています。手元存在というのは、何かモノを、自分はそれをどう使うのかという文脈の中で捉えるやり方です。手前存在というのは、何か取り敢えず有るのはわかるけど、それが自分にとってどんな意味があるのかはわからんという状態でモノを捉えるやり方です。
誰かに学問を教えるとき、常に意識するのは、相手はそれを学ぶことで何を解決しようとしているのかということです。単純に何かの領域を系統立てて理解したいということもあるでしょうし、何かの意思決定を念頭に置いているということもある。
その出口を知っていれば、それに向かって相手が一番、道具として使いやすい形で学的知識を整理し、手渡していくことが出来る。少なくとも私には出来る。
学問を手元存在として教えるということです。
マウンティング癖が骨の髄まで染み込んでいる人は、文脈を考えずに知っていることをダラダラ垂れ流しで見せびらかします。その方が相手が混乱するので、マウンティングしやすいですから。
大学が何の役に立つという話が政策論として出て来る時、多くの人の念頭にあるのは、手前存在としてダラダラ垂れ流される学的知識のカスケード噴水みたいな場としての大学なのかもしれません。飲料水として一人ひとりに飲みやすいデザインで提供され、知の乾きを癒やす学問の場ということを、コネでも天下りでも実力でもとにかく大学で教える立場を与えられている人はもっと意識した方が、職場環境は良くなっていくと思いました。