「迷惑だから」という論法で未熟者の登山を戒めるよりも、「あんた、死にますよ」とはっきり注意すべき。

奥多摩のMTB出入り禁止騒ぎの時にこれ、随分議論しましたが、
安易な考えのその行いが、いったいどれほど他者へ迷惑を及ぼすのかを、どうか思ってください。

こんなことがいつまでもくり返されていては、いづれ穂高は誰もが自由に登れる山ではなくなってしまいます。

出典
奥山や台風のうねりが入った海で無茶をして死ぬ自由って、あるかないかと言えば、
ある。
と思うのです。私はやらないですが。
百名山ブームで呑気なハイカーが奥山に入り込んで遭難するとか、ロードバイクブームで呑気なライダーがノーヘルで30万円のレース機材いきなり転がして転倒して脳天カチ割るとか。
アホですよ。それはもちろんアホです。
でもそこは、
「あんた、甘い考えでそういうことやってたら死ぬよ? もう死にたいの?」
と忠告してやるべきであって
「迷惑だから止めろ」
という論法は使うべきではないと思います。
迷惑つったらみんな大概、生きてるだけでどっか迷惑なんですよ。生きてればどっかで誰かと利害関係ぶつかるんだから。俺の前で1円単位まで現金で支払ってる高齢者だって、俺からしたら迷惑ですよ。でもそれはOKなの。お互いさまよ。
だからゼロ迷惑運動は、みんなせえので安楽死しようぜっていうのと、本質的には同じだと思うのですね。誰も得しない。熊本の被災地でも、迷惑だからっていって障害者や要介護者が避難所に行かないとかやってるでしょ。迷惑概念はおそらくパレート最適を阻害する、つまり、資源の最適な配分を妨げる変態脳内SM的自縄自縛概念と思うのです。
迷惑とかいう、極めて曖昧で、声のでかい奴に有利な概念ではなくて、それ非効率的だから止めようぜとか、弱者だから効率については大目に見るんだよバーロとか、あんた早死にしたいの? とか。そんな感じで、もっとクリアな概念を使って議論しなさいな。
私は息子には
「お前、そういうことしてると簡単に死ねるよ? 死にたいの?」
とはっきり質問します。
「死にたくない」
「じゃあ二度とするな。」
以上ですよ。この書き手は、山で会ったアホに「あんた死にたいの?」って聞いてないんじゃん。情けねーな。