沖家室の寄り合い1

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 今日はナイノア氏が沖家室島を訪問される日です。午前中はブログ翻訳などをこなし、昼前に宿を出ます。自転車の用意をしていると宿のおばちゃんが声をかけてきます。

「1時にお寺に船の人が来るちゅうとったね。」
「何でそんなこと知ってるんですか?」
「さっき放送で言っとった。」

 全島に放送してるんでしょうかね? まあ、だったら内々の視察というわけでもないでしょうから、私が行ったって問題無いでしょう。船越の集落から県道60号線を東へ向かいます。最短ルートは外入からの山越えですが、行きは体力温存で海岸沿いのルートを選択。外入の農協で弁当を買って堤防で食べ、先に進みます。この島の太平洋側にはコンビニなんて無いんです。坂を一つ二つ越えた所で眼下に伊崎集落が見えてきました(画像1)。この家々の一体どれだけに人が住んでいるものやら・・・・。本当に過疎と高齢化の島なんですよ。都心の土地バブルなんて一体何の話ですかという世界。集落内を走るとあちこちに廃屋や廃墟があるんです。商店も廃業していない方が珍しいくらい。それがこの島の当たり前になっている。

 私、真剣に色々考えましたよ。こんな走って楽しい島なんだし、歴史も食も文化も掘れば面白いものがわんさか出てくるんだし、人情温かく風光明媚。有能なプロデューサーが居ればエコ・ツーリズムや文化ツーリズムの島として再生出来るんじゃないか? 何とかならんですかね。

 さて。ここで振り返って山を見てみましょうか。変なレールがそこここにありますね。これは農作物を下ろす装置なんでしょうね(画像2)。

 伊崎集落の先の岬を曲がると、見えました。沖家室島です(画像3)。ここから地家室まではひたすら下り坂。地家室からもう一度岬を越し、佐連の集落の先から橋を渡って沖家室入り。本当に平地の無い島です。ですが宮本常一先生の研究によると、ここの漁民はもともと「わざわざ」こうした土地を選んで住み着いたのだと言います。漁で生計を立てるならその方が便利なんですね。今日の行事はこの橋の上からは見えない、もっと奥の辺りのお寺で行われます(画像4)。

 島に入って道を走っていると、おばあちゃんに出会いました。声をかけると、今からお寺に行くところだとか。

「ハワイに親類はおられますか?」
「おらん。けど島の人でハワイに親類が居るちゅうんは多いよ。」
「奥さんはハワイに行かれたことは?」
「いっぺんだけあるけど、もう年だから行きたくないね。東京や大阪には子供がおるで、旅行がてら行くけどね。」

 お寺に到着してみると、木陰の椅子ではおばあちゃんたちが世間話に花を咲かせています(画像5)。この4人の中でハワイに行ったことが無い方は1人、ハワイに親類が居ないのも1人でした。ホクレアについては良く解らないとのこと。と、「鯛の里」の松本さんが「今、平郡島を出たって連絡が入りました。」と教えてくれます。今日はハワイ移民資料館、周防大島の近所にある平郡島と回ってからこちらに来るんです。

「港でおとうちゃんたちが待ってるから、知らせないと。でも携帯繋がらないなあ。」
「私、自転車だからちょっと行って来ますよ。」

 こうして私は堤防へと向かったのでした。堤防ではおじさんたちが日章旗を持って座っています。暑そうです。

「こんにちは。船、遅れるみたいですよ。今、平郡島を出たって。」
「何や、そんなら30分はかかるわな。」
「あの野郎、このクソ暑いのに自分はお寺で涼んでやがって、年寄りばっかこんなところに行かせて・・・。」
「いつも自分ばっかり目立つところにおって、ワシらぁ使いよる。」

 矛先がポリネシア航海協会を通り越して別の所に向きつつあります。おやじさんたちのノリが面白いので、そのまま波止場で一緒に待つことにしました。おやじさんたちは場所を移して今日の世話人の悪口で盛り上がっています(画像6)。おとうさん、ついでだからハワイ人たちの悪口もいっときましょうよ。あいつらの船は「遅れ屋号」とか呼ばれてるんですよ。大体、こんな年上の方々を待たせるなんて礼儀を知らない奴らでしょ。さっき海にクラゲ浮いていたし、連中が着いたら海に叩き込んでクラゲの餌にしてやるってのはどうですか?

「逆にワシらが海に放り込まれるわいの(笑)」
「すごい体しとるからなあ。」
「見てきたんですか?」
「ああ、歓迎行事の時にな。」
「船には乗りました?」
「いやあ、昨日は行っとらん。」

 そうなんです。周防大島でのホクレア乗船体験は月曜日の13時30分から16時30分の3時間だけ。しかも同じ時間帯に10キロ弱離れたところで講演会という、トホホなスケジュールでした。平日の午後3時間だけじゃあねえ。

「おとうさんたちは、みんな漁師さんたちなんですか?」
「そうよ。みんな漁師。」
「今の季節だと何をやられるんですか?」
「ヤヅとかやね。」
「ヤヅ?」
「ハマチの子供。」
「ハマチってブリの子供のことでは・・・?」
「そうそう、ブリの子供。ハマチより小さい奴。」
「ワカシとかフクラギって言うやつですね。」
「この辺じゃあワカナとも言うわね。若い魚と書く。」
「私は金沢で良く食べましたけど、あっちじゃあフクラギですね。」
「そうそう、金沢の人がここで漁師やっとるよ。」
「え? 金沢から船で来るんですか?」
「違う違う。金沢に婿に行ったんやけど、定年なって今はこっちに単身赴任して漁師やっとるの。ここの出身やからここで漁師出来るのよ。」
「あの人はよう魚揚げるで。」
「働きもんやな。」
「ヤヅってのはどうやって獲るんですか?」
「一本釣りよ一本釣り。ワシらはみんな一本釣り。」

 そうでした。沖家室といえば一本釣り。一本釣りの技術が極めて発達した島だったんです。今もその伝統は続いているんですね。とはいえ高齢化というかなんというか、平均年齢は相当なもんです。後継者も居ないのでしょうね。

「竿は使わないですよね。」
「使わん使わん。手で釣る。」
「針は一つだけですか?」
「何本も枝分かれさして釣るのよ。」
「ブリになるまでこの辺に居るんですか?」
「おう、ブリも獲れるよ。この辺の海は何でも居る。」
「・・・・しかし来ませんねえ。もう1時半ですよ。」
「大島丸なら30分あれば来れるんやけどな。」
「どっちから見えて来ますか?」
「あっちよ(東の方)。」

 そのうち、おやじさんの一人が怒り出してしまいました。

「もう、やっとれんわ。もともと興味も無かったし、もうええ。畑行くわ。馬鹿馬鹿しい。」

 あ~あ。おやじさん一人帰っちゃったよ。年上の方々をお待たせしてるって自覚が欲しいですねえ、ポリネシア航海協会さんも。結局、ご一行様が現れたのは1時間遅れの2時でした。大島丸ではなくクルーザーでの登場です(画像7)。堤防の先端で釣りをしていた方々も不思議そう。このお二人は釣り仲間で、本州(山口県)から来ておられたんですが、ホクレアというのは知らなかったそうです。ただ年上の方はおじいさんが沖家室出身で、若い頃にハワイに行っておられたのだとか。今はもう沖家室からは親戚もみんな居なくなってしまったと言っておられました。

 ナイノアさん、今日もユルい恰好で登場(画像8)。履き古したビーサンはもはやトレードマーク。この後一旦は歩き出したのですが、あとで海図をクルーザーに忘れたのに気付いて(というか私が知らせた)走って戻ってました。漁師のおやじさんたちの一人が「ワシらぁ12時半から待っとったもんで、暑くてかなわんわ。」とチクリ。でもこっちのオヤジさんは日本語解らないんですよ、おとうさん。

 ご一行様が立ち去ったところでクルーザーのクルーもパチリ。

「この船、大島商船の船なんですか?」
「そうです。」
「じゃあ、皆さんは大島商船の生徒さん?」
「はい。」
「写真撮って良いですか?」
「お、やった!」

 というわけで写真(画像9)。裏方さんたちの絶大な努力によって、この航海は何とか恰好がついているんです。大島商船高専の生徒さんたちに大きな拍手をお願いします。いや、本当に良い子たちなんですよ。