デッキハウス・ギャング

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 ホクレアの最初の航海、1976年の航海を記録したベン・フィニーの「Hokule’a: The Way to Tahiti」をついに入手しました。なんでこんな大事な本が絶版なのか。そろそろペーパーバックで出してくれても良いもんだと思いますけれども。

 さて、早速中身をチェックしてみたのですが、私の最大の興味はやはりあれです。何でマウ師はタヒチでホクレアを降りたのか。そりゃあもう、これは怒るだろという・・・・酷いもんでしたね。マウ師じゃなくたって怒る。

 私が思うに、この失敗は出航する前から既にある程度予測できたんじゃないかと。悪いのは反乱を起こした数名(バッファロー・ケアウラナ、ブギー・カラマ、デューキー・カウフル、ビリー・リチャーズ。彼らは「ギャング」を自称していたそうです)というよりも、ポリネシア航海協会そのものだと私は思いました。

 まず、出航前のホオポノポノ(集会)で、ビリー・リチャーズとショーティー・バートルマンが、ホクレアに白人を乗せるのは反対だと公然と主張します。この時は、じゃあトミー・ホームズも駄目というのかという話になって、彼らは黙りました。というのも、バッファロー・ケアウラナを強力に推薦していたのがトミー・ホームズだったからです。二人は親友でした。

 そして、出航直後からもう船内はわやくちゃです。誰が持ち込んだんだか、マリファナなんか船内で吸っているし、決められたコンパートメントで寝ない、仕事をしない、船長に楯突く。そして、この状態を放置したことが傷口を広げます。

 最終的な破局は、パペエテ入港の前日に起きました。ホクレアは、タヒチ側のスポンサーの希望もあって、朝9時より前には、そして日没後にはパペエテに来るなと言われていました。歓迎式典がありますからね。それで、日のあるうちに入港できないと判断した船長のカウィカ・カパフレフアが、タヒチの手前の環礁でヒーブ・トゥ(錨を降ろさずに、同じ場所に留まり続ける操船)で一晩過ごして、翌日にパペエテに入ることを決定しました。ところが、さっさとタヒチに着きたかった「ギャング」がカウィカとベン・フィニーを取り囲んで、この決定を覆すよう迫ったのです。そして暴力沙汰。

 これはいけません。何がいけないって、船長。船長あなたが最大の責任者ですよ。船長の責務は航海を安全に実施し、無事に陸地に船を戻すこと。その為に、船長には絶大なる権限が付与されています。警察権もその一つ。船長が必要と認めれば、乗船している人物を入港まで逮捕監禁することが出来る。これはどこの国の法律でもそうなっています。ですから、カウィカは早い段階で「ギャング」を逮捕監禁してしまうべきだったのです。それで縛ったまま伴走船に移すべきだった。場合によっては一度、ハワイに戻っても良かった。これを放置したから、最後には反乱が起きてしまったのです。これはどう考えても「反乱」。喧嘩とか内紛とかじゃないです。

 結局どうなったか。ツアモツ海域の水先案内人として乗り込んでいたタヒチ人のロド・ウィリアムスが、ホクレアに『ナショナル・ジオグラフィック』誌の取材クルーを届けに来た船の船長だった息子を呼んできて(この人はバッファロー・ケアウラナよりごつい巨漢だったそうです)、反乱を鎮圧した。ロド・ウィリアムスが自分の槍を出してきて、「ギャング」に向かって、「いいかお前ら。俺はタヒチでも一番の投げ槍の名人だ」と啖呵を切って、おとなしくさせた。

 その間にロド・ウィリアムスの息子さんがパペエテに連絡して、私服警官を乗せたタグ・ボートをホクレアまで急行させた。

 要するにあれですよ。マウ師とロド・ウィリアムスのおかげで反乱が収まったってことじゃないですか。お願いして乗っていただいた外部の人たちの。これはいけません。この時のポリネシア航海協会には、どちらにせよ航海カヌーで遠洋航海をする能力が無かったと申し上げるしかありません。

 そりゃあ、マウ師も愛想尽かすでしょう。
 
 パペエテ入港後も「ギャング」の乱行は続き、公然とマリファナを吸ってうろつきまわるは、マウ師が残した決別のメッセージのカセットを聞かされ「偽物だ」とカウィカに殴りかかるは、もうわやくちゃ。マウ師だけではなく、トミー・ホームズはこんな奴らには付き合ってられないとばかりにさっさとポリネシア航海協会から離れるし、航海術研究の泰斗としてホクレアに乗っていたデヴィッド・ルイスも「もうわかった。先住ハワイ人は太平洋の航海民じゃなくて、ただのアメリカ人だった。ベン、あんたもさっさと手を引いた方が良い。あとは奴らだけで好きなだけ喧嘩させておけ」と言って帰ってしまいます。彼がそれまでに一緒に航海してきたタウマコやサタワルの精強な航海民とこの無様なハワイ人たちじゃあ、較べるのが失礼だというわけです。

 実はベン・フィニーは航海中に母上が亡くなられていて、パペエテ入港の翌日には故郷のサンディエゴに飛ぶ予定でしたが、それを延期してまで事態の収拾に奔走します。しかし事態の悪化は留まることを知らず、しまいにはタヒチ警察が麻薬犯罪者の集団としてホクレアのクルーに目を付ける始末。ポリネシア航海協会は「ギャング」4人衆を強制送還する分の飛行機代をなんとか調達してこれをハワイに送り返し、事態の悪化に歯止めをかけたのでした。

 結局、ポリネシア航海協会がどうにかこうにか、航海カヌーの一艘を大海原で切り回せるようになったのは1980年のタヒチ航海往路を終えた頃というべきでしょう。ホクレアが進水してから足かけ5年。海の神様は喧嘩ばかりしていたハワイアンたちを懲らしめる為にエディ・アイカウを天に召されたわけですが・・・・・いやあ下手したら人死にの2ダースくらい出てましたって。ナイノア・トンプソン氏が徹底的に安全確保にこだわる理由がわかるわ。

 ちなみに「ギャング」の一人、ビリー・リチャーズはその後、立派に更正を果たして、ホクレアの船長やワッチ・キャプテンを何度も務めるまでになりました。現在ではホノルルでコア・ウッドのヴィンテージ・カヌーの修復工房を主宰しています。