イングランドの私略船団

 アラトリステらの乗ったガレーは地中海を東へと向かった。地中海の島々の風景はイニゴに強い印象を与えた。それはアラトリステの故郷であるレオンの山々とも、イニゴの故郷ギプスコアの緑の平原とも、コポンスの故郷アラゴンの岩山とも全く異なるものだった。

 ガレーは僚船をともなってオランからカルタヘナに戻り、そこで補給を済ませると、シチリア島から来ていた2艘のガレーとともに東北東へ2日間航海してフォルメンテラ島へと到達した。そこから左手にマヨルカとメノルカを見てサルディニア島の南端のカリアリへと進んだ。カルタヘナを出航して8日目のことだった。

 カリアリで再び補給を行い、南東に向かって2日でシチリア島のトラーパニへ。トラーパニからムラタは再び単独での航海に戻り、シチリア総督からの書簡と4名の聖ヨハネ騎士団員を載せてマルタ島を目指した。イニゴはしばしば好奇心に駆られてグリアットと会話を交わし、この奇妙な人物が何を思ってアラトリステについて来たのかを感じ取っていった。

 さて、ムラタはシチリア島南端のパッセロ岬でダルマチアの船とすれ違い、付近をイングランドの私略船が2艘でうろついているとの情報を仕入れた。イングランドの船団はランペデューサ島を根城にしているとの話だったので、急遽ムラタは予定を変更し、ランペデューサ島へと向かった。ランペデューサ島はマルタ島の近くにある小島で、人は殆ど住んでいなかった。ムラタは一部の陸戦隊を予め上陸させてイングランド人たちの停泊地を陸側から奇襲させ、敵を混乱させた上で海側から主力をぶつける作戦を採った。アラトリステとコポンスはこの別働隊に配属され、一足先にガレーを降りていった。

 作戦は成功し、イングランドの船団はムラタによって制圧された。小さい方の船はイングランド人に襲われたスペイン船だったので、船は捕虜となっていた元の乗組員たちに返却された。イングランド人たちを指揮していたのはプリマスから来たロバート・スクルトンという男であった。当時のスペインはオランダやオスマン・トルコとは正式に戦端を開いていたので、戦闘で敗れたオランダ兵やトルコ兵は国際法に基づいて扱われていた。具体的には、自ら降服した者たちは故郷へ帰ることを許していたし、指揮官が降服した後も戦闘を止めなかった者たちは捕虜とした。しかしイングランド人はスペインにとっては単なる無法者の海賊でしかなかったので、スクルトンはランペデューサ島の見張り塔から吊され、足下の砂にはカスティリア語とトルコ語でこう書き残された。

「イングランド人の盗賊、そして海賊」

 スクルトン以外の海賊たち(イングランド人が11人、モーロ人が5人、トルコ人が2人)はいずれも奴隷としてムラタの漕手にされた。11年後、ジェノバの海戦でスペインがフランスと戦った時にも彼らのうちの数人は生きていたらしいが、ムラタが浸水した際に誰も彼らを鎖から外さなかった為、彼らはムラタとともに海の底に沈んでいったとの話である。