海人丸の航海、前半終了

 沖縄から愛知万博会場を目指している双胴サバニ型航海カヌー「海人丸」ですが、現在は宮崎でしばしの休息をとっているようです。

 小学校での授業も行われたとのこと。

http://sabani.ocean-photo.lomo.jp/?day=20050705

 なんともいい感じです。ブログを読んでいる限りでは、航海が進むにつれて多くの人の気持ちがこの船に集まって来ているようです。この航海に関わった方々は、きっとホクレア号が来た時にも、良い仕事をされるのではないか。そんな気がしています。

 荒木汰久治さんの日記も力のこもった文章が続きます。

21style

 少々失礼な事を書きますが、実は私、半年くらい前まで、荒木さんの文章はあまり上手くないなと思っていました。別に文章を書くのが荒木さんのお仕事ではありませんし、だからそれ自体は批判されるような問題ではないのですが、とりあえず、自分自身の書き言葉をまだ確立しておられない段階だと感じていました。ところが、この半年で、荒木さんの文章はぐんぐんと力強さを増し、また表現力豊かになって来たと思うのです。

 おそらく、この半年の間、海人丸エクスペディションという大きな仕事を進める中で、荒木さんが語るべきこと、荒木さんにしか語れないことが次々に生まれて来たのだと思います。だからこそ、その言葉には読み手を強くゆり動かす力が宿っているのでしょう。

 それにしても、日記なんだから、もともとその人自身にしか書けない話しか書いてないだろうと思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、それは半分は正しく、半分は空振っています。

 たしかに私たちは、自分がその日経験したことについて、語ることができます。けれどもね、例えばこういう文章。

「今日は昼過ぎに起きて、ぶらぶらと渋谷のタワーで買い物。××の新譜が出ていたので即買い。その後○○さん、■■さんと合流して飲み。☆☆さんの話で盛り上がる。」

 典型的な学生ブログ俺日記です。しかし、これは一体何かその人自身について語っているのでしょうか? どこかで見た文体。どこかで見たようなステレオタイプな日常生活。その人のオリジナルなんてどこにもありません。やっている事そのものも受け売りだし、文体も受け売り(というか、たった今私がそれっぽく、いわば受け売り的に創作したのですが)。

 このように、私たちは特に自分で何かオリジナルなことをやったり考えたりしなくても、ちまたに溢れている「行動のひな型」「言葉のひな型」「文体のひな型」を適当に組み合わせて、いくらでも文章をひねり出す事が出来ます。ワイドショーのコメンテーターなんか見ると良くわかりますが、自分で何も考えていなくても、定型に従って定型的なコメントを果てしなく垂れ流していますよね。

 私たちが誰かの文章や発言について「おっ、面白いぞ!」と思うか否かは、その文章や発言が受け売り100%なのか、いくばくかのオリジナルを添加してあるかの1点にかかっています*。意外性があるかどうか。意外性というのは、「こうなったらこうなってこうなるでしょ」という定型を一歩抜け出た所にありますが、言葉というのは、普通に使っていると、なかなかこの定型から抜け出せない。「猿も木から」と来れば、「落ちる」が勝手についてくる。ここで敢えて「降りる」とか「生える」とか、言葉の流れを曲げて行く先にしか、意外性は無い。

 荒木さんの文章も、以前は、この(言い方は悪いですが)「受け売り」のような言葉、どこかで読んだような言葉が多かったんです。予定調和的な文章ですね。1行目を読んだらだいたい全体の流れも結論も読めるような。ところが最近では、どう流れていくのか読めない、それでいて確固とした芯がある文章を書かれるようになった。それは、荒木さんが「海人丸」プロジェクトや「海人丸」の航海という、「どう流れていくのか読めない」もののただ中に居て、それに「確固とした芯」を与えようと苦闘されているからだと思います。荒木さんという個人を越えた大きな流れと、荒木さんという個人の意志が出会っているのが、今の荒木さんの日記なのだと想像しています。

 そしてまた、今、荒木さんがやっておられる事は、チャド・ババヤーンさんが言う「Wayfinding」、すなわち、航海という一つの目的のもとに、ある社会を構成しているもの全てを差し向けていくことでもあります。とすれば、私たちは、荒木さんの日記を読むことで、「Wayfinding」が実際いかにして行われるのかを、知る事が出来るのです。

 荒木さんの日記、お奨めです。

* もちろん100%オリジナルな言葉だけで出来た文章なんてのはあり得ません。だって言葉ってものは、みんなで使うことで言葉として成立しているわけですからね。