ダンディさではクルーの中でも一等賞と呼び声の高かったブルース・ブランケンフェルド船長に聞いた話をいくつか。
ブルース船長はホクレアの歴代クルーの中でいうと、第二世代に当たります。ポリネシア航海協会が「オリジナル・クルー」と呼ぶ1976年の第一回ハワイ・タヒチ間航海プロジェクトの時のクルーではなく、その次の世代ですね。彼が初めてホクレアの遠洋航海に搭乗したのは1978年のハワイ・タヒチ間航海。つまりエディ・アイカウが行方不明となったあの悲劇の航海です。
とはいうものの、もともとブルース船長の家はナイノア氏の家の隣りだということもあって、ホクレアのプロジェクトの背後にあったコミュニティとの繋がりは深かったようですね。カワノ・ヨシオさんも良くご存じだとおっしゃっていましたし、もちろんエディ・アイカウも良く知っていると(「エディ・アイカウさんに会えなかったのだけが残念だ」と言ったら「天国で会えるさ」とおっしゃってました)。
来月3日にホノルルで追悼セレモニーが行われるホクレアの初代船長、カウィカ・カパフレフア氏や2代目船長の故デイヴ・ライマン氏の話もしました。ホクレアの礎を築いたのは故カパフレフア氏やピイアナイア家(ゴードン氏、ノーマン氏)、ライマン家(デイヴ氏、キモ氏、マリオン女史)の方々だと思う。だから今回ノーマン氏が来日されたことなど殆ど注目されていないが、個人的にはピイアナイア家の方に会えたことをとても嬉しく思っているし、彼らを尊敬しているという話をしましたら、「ありがとう!」と言ってくださいましたね。
「ところで一つお聞きしたいことがあるのですが。ホクレアの歴史を繙くと、かつてはカウィカ船長とマウ航海長、デイヴ・ライマン船長やゴードン・ピイアナイア船長とトンプソン航海長のように、船長と航海長は別々の人間が務めていました。たしか船長と航海長の兼任が始まったのは1985年から87年のアオテアロア航海だと思いますが・・・。」
「そうだね。」
「そして今回のミクロネシア・日本航海では、大半が船長・航海長兼任体制でした。」
「たしかに。」
「先日、サタワル島でポゥの儀式を済ませた5人のナヴィゲーターは皆、一人で船長と航海長を兼ねることが多いと思うのですが、何故、船長・航海長兼任体制が多くなったのですか?」
「とても良い質問だ。たしかに昔は船長と航海長は別々の人間が務めていたし、両方を兼任するのはとても大変なことだ。だが私たち5人に限って言えば、長年の経験があるのでそれが可能だということだね。」
「ちなみにカワイハエからマーシャル諸島までの航程ではどれくらい眠られましたか?」
「殆ど寝なかったよ。」
「その上、船長の仕事も務めるとなると大変ですね。カイウラニさんにそれは可能なのですか?」
「今のところは無理だろうね。だから次代の船長としてナアレフ(アンソニー氏)を育てているんだ。」
「パラオからヤップに戻ってくる時にはナアレフさんが船長でしたね。」
「その通り。これからまたしばらくは、カイウラニが航海長でナアレフが船長というような分業体制の時代になると思うよ。」