2日連続で後藤明さんの本からネタを拾っています。
『海を渡ったモンゴロイド』の結語に、凄い事が書いてありました。「人間がどこかの土地に定着するというのは本当に基本的なありようなのだろうか」というような疑問です。
後藤さんは神話研究を長年やっておられますから、当然各地の神話の概要はご存じですし、宗教学の知識もお持ちです。上に紹介したのは、そこから出てきた疑問だと思います。どういうことかと言うとですね、宗教学では一般的に言って、「人間は世界の中心を求める」と考えられているのですが、オセアニアの神話にはどうもそういう傾向が無い。これは何故かという問いなのです。
宗教学では、世界の中心をそのまんま「世界の中心軸axis mundi」と呼びます。一番わかりやすいのは、上下方向に伸びる、やたらと存在感のある物体ですね。人間はそういうものを見つけると、「おお、これこそ世界のド真ん中だ」と思うのです。といっても佐々木健介じゃないですよ。むしろジャイアント馬場さんなんかaxis mundiっぽいですね。いや、そういうことではなくて、日本で言ったら富士山とかね。スペインのゲルニカの街にある樫の木もそうですね。あるいは超絶に凄い英雄の死んだ場所とか。ローマなんか典型ですね。聖ペテロが殉教した場所。あるいはイエスの死んだエルサレム。
そういう場所やモノには、大地から天に向かう運動性が感じられます。富士山はこう、本州島からガッとせり上がってスパーンと天に突き抜けているような形がありますよね。大きな木もそう。英雄の墓所も大地に倒れた英雄の魂が天に昇っていくようなイメージをもたらします。
私たちはそういう場所を聖なる場所、宇宙の中心と見立てて、そこで大地と天が繋がっていると考えました。そして、そこから自分がどっちの方向にどれだけ離れているかで現在位置を把握して生きていると宗教学は考えてきたわけです。
ところがポリネシアの神話はそういう構造をあまり持っていないらしいんですな。海の彼方にハヴァイキがあって、そこは民族の故郷であり死後の世界でもある。自分たちは常にどこかからやって来て、どこかへと去ってゆく途上にあると見る。現在移動中という状態が果てしなく続く。神話の英雄はいつも生まれた場所で諍いを起こして、「じゃあ良いよ俺は出ていくよ」と言ってカヌーに乗って船出してゆく。そして辿り着いた先で一旗揚げる。神話によってはそこからさらに次の島へと渡っていく奴が現れたりする。
先へ、先へ。
後藤さんはこのようなポリネシアの神話を、「現生人類はその歴史のほぼ全ての時期を移動に費やしてきたのであり、ポリネシア人は最後まで移動し続けた人々だった。だから神話にまでその移動性が入り込んでいるのではないか」というように解釈しています。
これは面白い指摘です。たしかに人類はアフリカから極地の果て、太平洋の果てまで移動して行きました。ホモ・サピエンスの歴史の99%は移動、拡散です。それは本来の性分だったかもしれない。私たちが移動することをたいがい止めたのはごく最近の事です。私たちが宗教や神話を持ったのもそれと大して変わらない時期でしたから、私たちの世界観はaxis mundiに結びついて構成されている事が多いのでしょうが、ポリネシア人は移動の中で宗教や神話を育んでいったのでしょうね。
さて、今また人類は「グローバライゼーション」という移動性を持ち始めているようにも思えます。それは移動を止めてから数万年を経た人類の文明のあり方を根本からシェイクするものですから、色々な所で不具合が生じて来ていると思います。どちらが良いのか私には良くわかりません。ですが、個人という思想が確立した後に急激な移動の時代が来ましたから、地域共同体という定住を前提としたシステムを基本にして組み上げられている私たちの価値観や社会構造では対応できていない問題が山積しています。例えば教育。例えば育児。例えば介護。例えば民族対立。例えば南北問題。
私は、こういった問題を置き去りにした移動性の称揚には全く興味がありませんが、後藤さんの問いかけそのものは非常に深いものだと思います。私たちの文明が再び移動を始める、しかも個人を基礎単位しての移動を始めるのであれば、そのような文明のありようにフィットした社会とはいかにあるべきかをきちんとみんなで考えていかなければならないでしょう。
そういえば、GPSや海図を用いる近代航法術はまさにaxis mundiをイングランドのグリニッジに打ち立てる事で可能になっているのですが、リモート・オセアニアの伝統的航法術は「自分の周りを世界が動く」という、ある種アンチaxis mundi的な、あるいは移動する民ならではの世界観をベースにしていましたね。
自分が旅し続ける所が世界の真ん中なんだというその心意気、見上げたものです。
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画像は鳥取県米子市からみた大山。これも一つのaxis mundiでしょう。縄文の昔からこの山は、沖を行く船に現在位置を知らせる役割も果たしてきました。