広河隆一が実は女性の敵らしいという話は、昔からDAYS JAPAN周辺では周知の事実であったという話を、DAYS JAPANにボランティアで長年関わっていた女性ライターが書いたブログ。
人権とか正義とか平和といった概念と、今回明らかになった常軌を逸した性犯罪常習者の側面が彼とその組織の中でどう折り合っていたのか、どうにもイメージ出来なかったんですよ。
(ペーパーメディアの方の週刊文春に掲載された記事はウェブに出ていた情報よりも更に数段おぞましいらしいです。怖いんで読むのは止めておきます)
色々な関連記事を読んでみてなんとなく出来てきたイメージとしては
1)「DAYS JAPAN」誌や「チェルノブイリ子ども基金」の掲げる社会正義が明快であり、熱烈な支持者層を形成していた一方、言説のありようとしては決して主流派ではないため、広河隆一という偶像が破壊されることで、これらの社会正義が日本社会において退潮することを危惧し、誰もが見てみぬふりをしていた。
2) フォトジャーナリズムの世界で生計を立てる、立てたい人々にとっては広河隆一に逆らうことは仕事を失うリスクに直結する行為と思われたため、やはり見て見ぬふりをしていた。
3) 被害者となった女性たち自身もまた1) の思考を内面化し、自分に向けられた広河隆一の性犯罪があたかも犯罪ではないかのように振る舞ってしまった。
というような構造かと思いました。
では広河隆一にとって人権とか正義というのは一体何だったのか? 単に女性を食い物にするための道具だったのか? そこはよくわかりません。
何か教訓を引き出して終わりたいのですが、うーん、なんだろうなあ。
広河隆一と彼の会社が、カルト集団的な側面を持っていたということは言えると思うんです。何らかの大きな正義を掲げて、強力過ぎる権力を持った支配者が君臨している、社会からちょっと距離を置かれた集団。でしょ。
シンプルに、「そういう集団には近づかない」というのが、特に若い女性にはすぐにも実行出来る身の守り方ではないかと考えます。