脚注は仕舞ってみる

 ええと、「アラトリステ」に関するアンケートで、脚注が多すぎるのではないかという意見も出ているようですので、脚注の大半を書いている者として(個人的な)見解を述べておきます。

 たしかに物語がすら~っと流れていくのを、ページ末の脚注は遮っているかもしれません。ですから章末にまとめられないか、O内に相談しているところです。

 ですが、脚注そのものは私は減らしたく無いですね。というのは、私たちが(知っているつもりで)殆ど知らない17世紀西ヨーロッパ世界に「物語」という形で触れることが出来る、極めて貴重なシリーズが「アラトリステ」だと思うからです。

 もちろん、いや私は八十年戦争をテーマに博士論文書いたんで、はっきり言って知っていることばかりですという碩学もおられるかもしれません(居たら翻訳チームにスカウトしたいですが)。あるいは、洋風架空世界ファンタジーノベルのように、物語そのものが良くできていれば良い、書き割りの裏はベニヤ板と角材であっても構わないし、そういう部分に興味は無いという方もおられるでしょう。

 ですが、作業を進めれば進めるほど、著者レベルテ氏が裂帛の気合いで当時の時代背景や状況を精査してこのシリーズを書いたことが実感されるわけです。登場人物が通り過ぎるだけの適当な舞台装置でも良いところ、そういう部分にも異常な手間と情熱が注入されている。と私は感じます。可能な限り、そういう部分も味わって欲しいというのが私の希望です。一見すると、何でこんな分かり切った言葉に脚注が付いているんだというような部分も日本語版「アラトリステ」にはあります。実は、私自身が「分かっているつもりだけれど念のため調べてみたら、本当はよく分かっていなかった」ものが無数にあるんです。ところが著者はそういう微妙な差異、ディテールをきちんと意識して書いているんですよ、物語を。

 通だけが味わい尽くせるマニアックな物語。でもその「通」は日本にはまず存在しない。これはまずい(笑)。その難儀な物語を日本語話者向けにいかに提示するかという試行錯誤の途中経過が、あんな感じなんですね。

 仮に脚注を一切読まなくても、「アラトリステ」は非常に上質の物語です。それは確かですし、そういう読み方はあって良い。ページ末の脚注がそういう読み方を遮っていたとすれば申し訳無いことです。ですから対策は考えます。

 ですが、物語の骨格だけを読んで「全て分かったつもり」にはなって欲しくもない。もっと別の読み方も可能な本だということ、別の読み方をする読者も存在するということは解っていただきたい。・・・です。