「機動戦士ガンダム 水星の魔女」の放送からまもなく4年が経とうとしている。
この4年間で多分10周以上は「水星の魔女」を見て、何度見ても名作だなあと感動するのだが、放送当時あれこれ議論になっていた論点についても個人的にだいたい結論が出たので、それをまとめておきたい。また本稿についてご意見・感想などあれば拙noteへのDMやコメント、あるいは info@sdtricks.net にお送りいただければ、可能な限り丁寧かつ誠実に対応させていただく。


はじめに
本稿は本文・表・注を含めて38842字と人文系の雑誌投稿論文の一般的な規定文字数の2倍に迫る文章量となっているが、全てを通読しなくとも個々の論点については把握できるようになっているので、まずは興味のある章・節に飛んで読み始めていただいて結構である。
「機動戦士ガンダム 水星の魔女」は全24話とそれまでのTVシリーズのガンダムと比べると半分の話数ながら少なくとも商業的には間違いなく大いに成功した作品となった(「水星の魔女」放送開始の会計年度から今年度までの5年間でバンダイナムコのガンダム関連の売り上げは1000億円から2000億円へと倍増している)。
作品の内容の良し悪しは人によって評価が変わるので本稿では問題としないが、「初めての女性主人公」「初めての学園もの」という、ガンダムシリーズに常に求められる革新を意欲的に盛り込みつつも手堅く丁寧にまとめられた作品であることについては、幅広い同意が得られるのではないだろうか。
その一方で本作は「百合 x ガンダム」「ウテナの引用」という表面的な部分のわかりやすさに引っ張られ、それらの皮の下にある本作のテーマや構造についての分析が進みづらいという問題もあるように思う。
そこで本稿では放送当時注目を集めた「百合」「少女革命ウテナ」、そしてこれらのキーワードに付随して「水星の魔女」論に組み込まれることとなった「クィア」「フェミニズム」といった論点を私なりに整理した上で、それらの、ある意味で表層的な論点の奥に存在する、これまであまり論じて来られなかった「親子関係」「資本主義」「魔女」といった論点についてもリストアップし、それぞれについて今後の議論の入り口となるような分析を行った。
なお、これまでに公刊された小川公代や河野真太郎ら文学研究者による「水星の魔女」論では制作陣のインタビューやムック、ブルーレイディスク、ノベライズ(巻末にインタビューが収録されている)などの関連資料の活用が些少だったと私は考えているが、本稿では可能な限り丁寧に「水星の魔女」に関する一次資料・二次資料を精査し、出典を示した上での引用を心がけた。その際、資料と資料の間で明らかに矛盾があったり、資料の内容が虚偽であることを疑いなく示す証拠の存在が知られていたりするもの以外は、資料の内容を事実として扱っている。
一方、書籍や雑誌記事のような形で公刊されているものではない個人のブログやnote、SNSの投稿の形での「水星の魔女」に関する諸言説については敢えて名指ししたり、リンクをつけたりすることは避けた。これは、本稿の目的が私の思考の整理であって、ファンダム内部での論争(平和的な意見交換や建設的な議論ではなく)のきっかけになることは不本意であるという理由による。
「少女革命ウテナ」「百合」「クィア」「同性婚」関連の議論
要約
- ビジネスプロジェクトとしての前提条件が全く違う
- キーワードは「魔女」であって「王子様」ではない
- 各種インタビューからも「ウテナ」が出発点ではないことは明確に読み取れる
- 「ウテナ」の翻案であれば著作権法上もそのように表記されるはず
- 「水星の魔女」は「ウテナ」の翻案ではないのだから「ウテナ」と同じテーマや思想を表現しなかったのは当たり前
論点1:「水星の魔女」は「少女革命ウテナ」の進化形・後継作品なのか?
「ウテナ」と「水星の魔女」の違いはスズキ・カプチーノとトヨタ・カローラの違い
これは明確に違う。「水星の魔女」は「少女革命ウテナ」の進化形・後継作品ではない。
幾つかの部分で「ウテナ」へのオマージュや引用があるのは事実だが、「ウテナ」と「水星の魔女」ではそもそも扱っているテーマが異なる。だから「少女革命ウテナ」が正典になっている人はむしろ「水星の魔女」は絶対に見ない方が良いとすら言える。
「ウテナ」は制作当時(1990年代後半)の日本社会の女性の立場やジェンダー観、キャリア観が前提にあり、当時の低年齢層向け少女漫画のテンプレ(王子様願望やヘテロ恋愛至上主義)を流用して、これらの構造を解体する主人公を描いた作品だ。そこでは同時に、ラスボスの鬼畜男・鳳暁生に家父長制や男性中心主義を極端に誇張したものを投影し、筆舌に尽くしがたい巨悪として描いている。一方、鳳暁生に支配されて学園で暗躍する姫宮アンシーは(作中ではアンシー被害者も多数なのだが)構造の犠牲者であり、作中謎の無意味な決闘を続ける天上ウテナが最終的に自己犠牲によって鳳暁生のマインドコントロールから解放する、というお話。映画だと最後は二人で全裸になってクルマで爆走していく。リアリティラインというものがもはや存在しない、麻薬をキメて見るサイケデリックな夢のようなアニメである。建付けとしては古色蒼然とした70-80年代のマルクス主義フェミニズムと、同じく70-80年代の小劇場の前衛演劇のかけ合わせをTVアニメにしたような代物だが、ハマる人は徹底的にハマる作品だ。
とはいえもともとウテナは低予算のカルトアニメであり(結果的にはそれなりの大きなビジネスになったとはいえ)、日本を代表するグローバルIP「ガンダム」の旗艦級作品として「若い世代の新規ファン層の獲得」という戦略的役割を与えられて制作された「水星の魔女」とウテナでは、やれることもやるべきことも異なる。スズキ・カプチーノの後継車がトヨタ・カローラなわけがないのと同じだ。バンダイナムコHDの資料によると、ガンダム関連の売上は2022年3月期が1017億円、2023年3月期(「水星の魔女」S1放送終了直後)が1313億円、2024年3月期(「水星の魔女」S2放送終了はこの会計年度)には1457億円となっている。「水星の魔女」は100億円単位の金が動くビジネスなのだ。
https://www.bandainamco.co.jp/ir/library/assets/pdf/2024/integratedreports2024_jp_38-61.pdf
『週刊文春エンタ+ 大特集 機動戦士ガンダム水星の魔女 x 機動戦士ガンダムSEEDシリーズ』36-37ページのインタビューにおいて「水星の魔女」エグゼクティブ・プロデューサーの小形尚弘は「水星の魔女」を
「まだガンダムシリーズを見たことのない若い世代に向けたもの」
としている。シングルイシュー・シングルテーマで作れるカルトアニメのウテナとは違い、「水星の魔女」はガンダムに期待されるさまざまな要素を包摂した上で「今回はこれ」という尖った特徴を付与するわけだ。
「水星の魔女」は「王子様」ではなく「魔女」がキーワード
では、どのような特徴が「水星の魔女」に付与されたのか。
小林寛監督のインタビュー(『The Report of 機動戦士ガンダム 水星の魔女 Season2』収録)によれば、モリオン航空による企画書に監督が加えたのは「魔女とは何者か?」「魔女が使役するガンダムとは、いかなる存在か?」「ガンダムやモビルスーツが兵器として使われている世界とは?」の3要素で、さらに
「この場合の「魔女」は童話やおとぎ話の「魔法使い」ではなく、宗教史における「異端者」、弾圧される側、糾弾される側であるという発想から考えていきました」
とある。さらに当初はポストアポカリプスもので考えていたものがわかりづらいということで学園ものに切り替え、さらにその学園を兵器産業が経営する私学とすることで生徒たちと外の世界の戦争の繋がりを作ったともある。
「「異端」から派生して、ジェンダー、人種、宗教、家柄、人間関係、職場の問題、自身の進路、親子など……世の中に存在するさまざまな「生きづらさ」を「呪い」として強いてくる前世代的な大きな負債。それらから救済されるために主人公たちがどう立ち向かえばいいのか、その挑戦をひとつ描ければいいなと思っていました」
「一方、「親子関係」に関しては、それ自体を描きたかったわけではないんです。先ほど述べたように、「魔女=異端者、マイノリティ」の側のガンダムとそれを取り巻くキャラクターたちに、今の人たちが抱えているいろいろな「生きづらさ」を重ねて、その「生きづらさ」をどう克服するのか、どう救済するのか。理想を言えば、そこにたどり着きたかった。それが結果的に「親子関係」に集約・矮小化して見えてしまったのは、大きな反省点です」

これを読めば、水星の魔女は「ウテナを進化発展させてもう一度、鳳暁生を少女たちに打倒させよう」という企画ではないのは明らかだ。キーワードは「魔女」なのだ。
だからデリング、ヴィム、サリウス、プロスペラという親たちがスレミオに徹底的にボコされて懲らしめられる話にならなかったのである。またウテナの鳳暁生のいくつかの要素(外見、脱ぎ癖、陰謀家属性)を引用して造形されたシャディクはBoomer Remover思想、つまり上の世代を排除することで社会を変えようという考え方を持つ人物として作られたと小林監督は明言しているので、ウテナのラスボスの再登板という先入観で見ていたら「あれ?」となるのは当たり前だ。
脚本・シリーズ構成の大河内一楼のインタビューも確認しておこう。
「僕は脚本家という職業なので、基本的にはオーダーをいただいて書くわけですが、新しいガンダムのプロジェクトとして、若い世代をはじめ、新しい視聴者の方々に見ていただけるガンダムにしてくれとオーダーされました。」
「従来のガンダムって、悲劇やバトル、戦争がメインの要素だったと思うんですけど、今回は学園や会社、恋愛も絡めています。」
「“ガンダムじゃないもの”を作るつもりはなかったので、今までのガンダムシリーズが作り上げてきた良い部分に、今作ならではの要素を加える。ただ、そうなると情報量のコントロールが難しくて。そのあたりのバランス感には苦心しながら作っていますね。」
こちらでも、フェミニズムとか家父長制批判とかウテナの再話というような話は一つも出ていない。フェミニズム系の論客による「水星の魔女」読み解きもそれはそれで興味深いのだが、制作側のインタビューを一切参照していないものが非常に多く、また受容分析を行ったわけでもない、管見の限りでは単に既存の何人かのフェミニズム論客の著書から概念を流用して「水星の魔女」に当てはめただけのものしか存在しないので、実証的な議論とは呼べないと考える。
元王子様の鳳暁生と元プリンスのシャディクはこんなに違う
鳳暁生とシャディクについてはもう少し詳しく見てみるのも面白い。
| 鳳暁生 | シャディク・ゼネリ | |
|---|---|---|
| 出自 | 元王子様 | アーシアンとスペーシアンのハーフ。優れた才能を見せたためグラスレーのアカデミーに入り、サリウス・ゼネリの養子となった。アカデミー時代のあだ名が「プリンス」。 |
| 家族 | 学園理事長の娘と婚約。妹は決闘のトロフィーであるアンシー。 | 婚約者も妹もいない。 |
| 学園での立場 | 事実上の最高権力者 | 御三家の一つ、グラスレー寮の寮長 |
| 下半身 | アニメ史上最悪級の魔獣。アダルトアニメにすら滅多に出てこないレベルでクズ。 | 作中では被害者はいない。 |
| 見た目 | 色素多め。すぐに脱ぐ。 | 色素多め。すぐに脱ぐ。 |
| 決闘への関わり | 黒幕 | 決闘委員会メンバーだが黒幕ではない。 |
| トロフィーとの関わり | 兄。DVとモラハラでマインドコントロール。しかも性奴隷にしている。 | 幼馴染。行動原理の一つがミオリネの幸福実現。純愛を最後まで貫く。 |
| 主人公との関わり | 利用しつつ下半身では毒牙にかける | 「水星ちゃん」には終始好意的に接する。 |
| 目的 | 王子様に戻りたい | ベネリットグループを解体することでアーシアンの苦しみを無くしたい。 |
| 作中での悪事 | 全ての悪の元凶。 | プラントクエタでのテロ、ランブルリングでのサリウス拉致、ソフィ暴走によるアスティカシア高専壊滅を仕掛けた。 |
| 作中での役割 | ラスボス | 中ボス。主人公チーム(ミオリネとグエル)に敗北した後はミオリネに世界の変革を託し、学園の仲間たちの罪の責任を全て一人で引き受ける。しかも恋敵であったスレッタの母親が負うべき責任まで引き取る。 |
こうしてみると、シャディクの方が圧倒的にまともである。直接大量の死人・怪我人を出しているのはシャディクだが、悪役なりに筋の通ったところもあれば人間味もある。見た目以外に褒めるところが一つもない鳳暁生との違いは絶大だ。鳳暁生も根室記念館で100人の大量死事件があったのに何の責任も取らず改革もせずに学園に居座っているんだから、ほんとクズの中のクズ。
この鳳暁生とシャディク・ゼネリの数々の差異は、水星の魔女がウテナとは異なるテーマを表現しようとしていたことの証拠でもある。
資料から検証する「水星の魔女」企画の流れ
以下は月刊ニュータイプ編『The Report of 機動戦士ガンダム 水星の魔女』のS1およびS2に収録された岡本プロデューサー、小林監督、大河内一楼(脚本)、モグモ(キャラクターデザイン)の発言からまとめた、「水星の魔女」の企画完成までの流れである。まず「女性主人公」、次にキャッチコピーとタイトルが決まり、ポストアポカリプスものとして脚本を1話分書いたところで急遽、中学生の声を反映して学園ものに転換という流れである。「ガンダムの皮を被せたウテナリメイク」が「水星の魔女」のコンセプトなら、こんな流れにはならないはずだ。
もちろん前述のシャディクのように、かつて大河内一楼が関わった「ウテナ」の部分引用が入っていることは事実だが、それは枝葉の問題である。「ウテナ」からの引用の存在に極度に拘る人々が、水星の魔女はウテナを期待させておいてまったく違う話だったと主張するのは事実認識としてまったく正しい。「水星の魔女」はウテナからの引用を一切行わなくとも成立する物語なのだ。
| ステップ | 出典 |
|---|---|
| 2018年頃、バンダイナムコフィルムワークス社内で次期ガンダムの企画検討が始まり、女性主人公のガンダムというアイデアが出る。 | 岡本プロデューサーインタビュー(S1収録) |
| 2020年、モリオン航空による「水星の魔女」企画書がコンペを経て岡本プロデューサーに渡る。 | 同上およびモグモインタビュー(S1収録) |
| 岡本プロデューサーから小林寛に監督就任を打診 | 同上 |
| 岡本プロデューサーと小林寛監督が脚本家として大河内一楼に白羽の矢を立てる。 | 同上 |
| 大河内一楼による第1話脚本初稿が書かれる。この段階ではポストアポカリプスもの。 | 大河内一楼インタビュー(S1)および小林監督インタビュー(S2) |
| バンダイナムコフィルムワークスに社会見学に来た中学生が、ガンダムは自分たち向けではないと岡本プロデューサーに語り、岡本プロデューサーと小林監督が学園ものへと路線変更を決断。ガンダムが学園内決闘に使われるというアイデアは小林監督によるもの。 | 岡本プロデューサーインタビュー、大河内一楼インタビュー |
| 第1話脚本初稿を没にしてあらためて学園ものとしてのアイデアを制作陣がブレスト。この時点でモリオン航空による企画書から残っていたのはキャッチコピー「その魔女は、ガンダムを駆る」とタイトル「水星の魔女」程度。 | 大河内一楼インタビュー、モグモインタビュー |
ウェブ上に存在する岡本プロデューサーのインタビューでも同様の話は出てくるので、そちらもご確認いただきたい。
引用元探しに熱中するのもほどほどに
押井守や庵野秀明の系統のアニメ作品に目立つ、先行作品からの引用をこれでもかと散りばめた作風は、いわゆる「考察」を促すための仕掛けとして定着しており、最近ではジークアクスがそれをやってSNSは大層盛り上がっていたのが記憶に新しい。
だが、引用元探しゲームだけがアニメの楽しみ方ではないし、引用元探しゲームが高級なアニメの楽しみ方でもない。むしろ引用元探しに気を取られ過ぎて、眼の前にある作品の受容が歪むこともあるように思える。水星の魔女を見ながらウテナの引用探しばかりしているうちに、あれもこれもウテナあるいは幾原作品の引用に見えてくるわけだ。そういう楽しみ方ももちろんありだが、それが行き過ぎると妄想とチェリーピッキングの果てに「水星の魔女はウテナの劣化リメイクだ!」みたいに思い込んでしまうかもしれない。これから「水星の魔女」を見る人は、そうならないように気をつけて欲しい。
むしろ「ウテナを引用する作品はウテナと同じ思想や主題を表現しなければならない」と思い込む認知の歪みが何故生まれたのかを考える方が、建設的かもしれない。ジークアクスはファーストガンダムやエヴァンゲリオンを大量に引用していたが、ジークアクスがそれらの作品の思想や主題を忠実に表現しなかったといって非難する声は管見の限りでは見当たらない。


引用とリメイクは違う
「水星の魔女」批判のかなりの部分は先行する「僕にとっての聖典・私にとっての正典」であるファーストガンダムやウテナを基準として、それらをどう現代的にアップデートしているかで作品の達成度を判断するという思考に基づいていたが、「水星の魔女」はウテナのリメイク作品ではないのだから、どれだけウテナのテーマを継承しつつ現代的表現にアプデしたかという観点で評価すること自体、筋違いだ。
私たちのウテナをオマージュしたくせにウテナと違う話にしやがってという感情が湧くことはどうしようもないだろうが、私たちよりも大河内一楼(「水星の魔女」脚本・「少女革命ウテナ」ノベライズ担当)の方がウテナへの御縁が深いわけだし、オマージュや引用をしたら引用元と同じ思想や同じ価値観を表現しなければいけないなどというルールは無い。むしろ引用元との差異(何がどう変形され、それによって何が表現されたのか)を丁寧に見ていくのがまともな批評である。2020年代レベルの作画やキャラデザや劇伴のリメイク版ウテナが見たければクラファンでもして資金集めをするほうが良いだろう。
そして最も重要なこととして、以下の法的問題がある。
特定の作品を登場人物や舞台を入れ替えて再構成することは「引用」や「オマージュ」ではなく「翻案」であり、元作品の著作権者の許可(翻案権)を取る必要がある
ウテナが好きすぎてシーズン1で「水星の魔女」はウテナの翻案だと思い込み、7話あたりから全く違う話になっていったことで「これはウテナではない」と怒り出した人も散見されたが、「水星の魔女」がウテナの翻案でない以上、それは当たり前のことだ。また「水星の魔女」は「テンペスト」の翻案でもないので「テンペスト」と全く同じ構造になるわけがない、ということに思い至らない人もいた。
論点2:スレッタとミオリネの恋愛と結婚の描かれ方
2-1:クィアベイティングとレイジベイティング
これについて「匂わせ」による「クィアベイティング」だという非難もあったが、そもそも地上波ガンダムのような超大型IPがわざわざそんな小さな市場を狙って取り込むマーケティング戦略を立てると考えるのは無理がある。更に言えば「水星の魔女」を「クィアベイティング」だといってSNSのインプレッションやPVを稼いでいた手口は典型的な「レイジベイティング」であり、「リベラルのタブスタ」として嫌われる振る舞いパターンになっていたと思う。
また、実際に内部資料なりインタビューなりで「同性愛の匂わせをしてSNSでバズらせようという戦略も使いました」という文言が出てきたならともかく、自分たちのエコーチェンバーの中で勝手に妄想を膨らませて断定的に語っていたのも、まともな批評態度とは思えない。しかも一応は研究者とか批評家というプロフェッションを標榜している人々もそこに加わっていたのは、とても残念な光景だった。
昨年、クィアも大満足のMMロマンス作品として大ヒットしたカナダのテレビドラマ「Heated Rivalry」は最初からゲイ・ロマンスを標榜し、毎回毎回ゲイのセックスシーンが見せ場になるというものであった。つまり最初からこれはクィアものだと宣言し、宣言通りにそういう要素を特盛りで提供したから大好評だったという事案である。
だが、「水星の魔女」は、これはレズビアン・ロマンスですと公式に宣言されていたわけでもない。そもそも中学生まで取り込もうとして夕方に放送する学園ものでレズビアン・セックスシーンを定期的にやるわけがない。そういうものが見たければ他にいくらでも選択肢がある。世界はあなたたちのために回っているわけではない。
一方、スレッタとミオリネが人生をともにするパートナー関係になったことを強く示唆するものは本編中でもそれ以外の公式コンテンツでも大量に供給されている。ミオリネがプロスペラにぶつけた「私たち家族になるんだから」というセリフ、エリクトの「小姑の言うことは聞いとくもんだよ」というセリフ、二人の左手薬指の指輪、「水星の魔女」エピローグのためにアイナ・ジ・エンドが書き下ろした「宝石の日々」の歌詞。アスティカシア全校集会での「パートナー」宣言。
どうしても二人のキスシーンやセックスシーンが見たいのならば、二次創作を活用すれば良いだけではないだろうか。
また、「水星の魔女」でラスボス役を務めたプロスペラが女性だったということからミソジニー(女性嫌悪)作品だと非難する声すらあった。ガンダムシリーズ定番の覆面ヴィランに女性が登板したのはこれが初めてなのだが、ではシャアが出てきたファースト、ラウ・ル・クルーゼが出てきたSEED、ミスター・ブシドーのダブルオー、フル・フロンタルのユニコーンはミサンドリー(男性嫌悪)作品だったのかという問いが出てくる。
そんなわけがない。
むしろ地上波TVシリーズガンダムの覆面ヴィランは花形中の花形で、その働き次第で作品の完成度が大きく左右される最重要ポジションだ。そのポジションをついに女性が手に入れた。これは「ガラスの天上を突破した」と称賛すべき事案である。プロスペラの働き自体も歴代覆面ヴィランと比較してもまったく見劣りしない(むしろミスター・ブシドーあたりより遥かにカッコいい)。付記しておくと「水星の魔女」の最終盤で最も悪役に見えたのはプロスペラではなくILTSで学生ごとクワイエットゼロを照射しようとしていた議会連合のように思える。
もちろん「水星の魔女」をクィアベイティングであるとかミソジニーであると主張する自由は日本国にはあるし、その自由は断固守られなければならない。ドナルド・トランプのように気に入らない政治的立場や主張の論客を、その活動領域まるごと補助金を止めたり民事訴訟で圧力をかけるようなやり方は絶対にあってはならない。だがクィアベイティングと言われようがミソジニーと言われようが女性主人公がキスの一つもしないまま女性の恋人と結婚するフィクションを発表する自由、婚姻届を提出するシーンを描かなくとも二人は同性で法律婚をしたという設定にする自由も同様に守られなければならない。
「当事者」による異議申し立ての正統性と正当性
「水星の魔女」がクィアの恋愛の称揚を主題にしなかったことについては、私はクィア当事者であると称する方々による「私はクィア当事者である。私は「水星の魔女」が充分にクィアの恋愛や結婚を描かなかったことで傷ついた。よって「水星の魔女」はひどい作品である」という批判が見られた。
この批判はもちろん日本国では法律上何の問題も無い。どんどん主張して良いと考える。少なくともtheyにはある種の正統性がある。異議申し立ては日本ではウェルカムである。theyの口を塞いではならない。
しかしながら「水星の魔女」は地上波で無料で視聴できた作品であり、繰り返すがクィアの恋愛や結婚を主題にすると宣伝して有料で上映・放送された作品ではない。theyは「水星の魔女」について不平不満を鳴らす自由はあるが、「水星の魔女」の内容についてああしろこうしろと言う権利は無い。「水星の魔女」はビジネスであり、それがビジネスである以上「口を出すならカネも出せ」なのである。
ではtheyがマイノリティであり、少なくともセクシャリティにおいて「水星の魔女」の主人公の二人がtheyと共通するという点において、theyは「水星の魔女」の内容について何かを要求する権利はあるだろうか? たとえば先住民族やろう者が彼/女らの伝統文化や言語文化について、それを用いた商品についての権利を主張することはしばしばあるし、それは比較的認められやすい。たとえば正しい文脈での使用、借用元の明記、場合によってはキャスティングにおける優先権などである。
同じような考え方はもちろん性的マイノリティにも応用できる。たとえば性的マイノリティの生活を克明に描写するような作品では不正確な描写はあってはならないだろうし、性的マイノリティへの悪意がある/発生するような描写もあってはならないだろうし、キャスティングでの優先権もあるだろう。
だが「水星の魔女」は性的マイノリティについての物語ではなかった(水星の魔女の物語世界においてレズビアンやパンセクシャルがマイノリティであると読み取れる描写が無かったことも指摘しておく)。レズビアンやパンセクシャルを貶めるような、あるいは攻撃するような描写も無かったはずである。
キャスティングにおいて、たとえばスレッタとミオリネの担当声優はレズビアンかパンセクシャルであるべきだという主張は可能だが、本来、個々人のセクシャリティは最高度に秘匿されるべきプライバシーであり、それを基準にしたキャスティングは非常に難しい(英語版のスレッタはクィアの声優であるが)。エスニシティやディスアビリティのようにある程度は外から見てわかるような属性とは異なり、セクシャリティは秘匿されることも多いから、「水星の魔女」の制作陣の中にカミングアウトしていないクィアがいた可能性はある。というよりも統計的に考えれば間違いなく「いた」だろうし、その数はSNSで「水星の魔女」についての不満を申し述べている、私はクィアであると主張する人々とあまり変わらないだろう。統計的に考えれば。
では、そのとき、どちらに「水星の魔女」におけるクィア性の描写の量や質を云々する正当性があるのか。少なくともSNSやnoteや自著で不平不満を鳴らす無課金勢に独占的かつ排他的に「水星の魔女」におけるクィア性の扱いの是非を決める権利は無いと私は思う。他人が他人のカネで作ってタダで見せてくれたものに文句を言うのも良いが、それよりも「本当にクィアなガンダムとはこういうものだ」という非公式ガンダムを小説でもマンガでも自分で作って提示してみせる方が話が早いだろう。
ヴィヴィアン・ジェナ・ウィルソンとイーロン・マスクとXとクィアの権利を守り拡げることと
「水星の魔女」はクィアのカップルを出しておきながらクィアの権利獲得運動に興味を示していないのは残念だ、という主張も見かけたことがある。そう主張する自由はもちろんあるのだが、個人的に思うことは、以下である。
「クィアの権利について真剣になるならば、イーロン・マスクが所有するXからアカウントを削除するのが、あなたたちが真っ先にすべきことではないのか」
イーロン・マスクにはトランスジェンダーの娘、ヴィヴィアン・ジェナ・ウィルソンがいるのだが、彼が娘に対して取っている態度は「水星の魔女」などとは次元が幾つも違うところでクィアに対する攻撃に思える。もちろんヴィヴィアン・ジェナ・ウィルソンはXを使っていない


「クィアベイティング」を法学の手法で検討したnote
付記:クィアベイティング概念について法学の方法論で考察したこちらのnoteは面白かったので紹介しておく。ここで考察されているのはアイドルやVtuberなどが行う「匂わせ」である。これは、実際に作中で結婚したとしか考えられない描写があり、監督もインタビューで二人の結婚を明言し、なおかつホモフォビア表現は管見の限りでは存在しなかった「水星の魔女」とは比較にならないレベルで「匂わせ」のマネタイズをしている事例であるが、それでも論者は法的サンクションは不可能であり、社会的サンクションもするべきではないと結論している。


付記2:いずれにしてもバンダイナムコのガンダム関連の売り上げは2022年から飛ぶ鳥を落とす勢いで伸びており、2026年3月期の年間売り上げは2000億円を伺う勢いと報じられている。これは「水星の魔女」が始まった2022年3月期の倍の数字である。ブランド価値という観点では「水星の魔女」に対する「クィアベイティング」や英語版スレッタ役のキャスティングに対する「ホワイトウォッシュ」という批判*3はほとんど影響を与えなかったのかもしれない。
*3 スレッタの遺伝子上の父親であるナディム・サマヤの肌色と名前が中東から南アジアにかけての民族をイメージさせることから、英語版でスレッタの声を担当する声優もこの地域にルーツを持つ者であるべきであるという主張が提出されて一部で論争となった。実際にスレッタを演じたジル・ハリスは中東や南アジアのルーツは無いと思われるが、クィアであることは公表している。


2-2:ガンダムエース事件をどう捉えるか
ガンダムエースにおける市ノ瀬加那の発言が電書版において追っかけ修正されるに至った時系列は以下のようなものだ。
| 日付 | イベント |
|---|---|
| 2023年7月2日 | 最終話「目一杯の祝福を君に」初回放映。 |
| 2023年7月上旬 | 一部で「水星の魔女」はクィアベイティング作品だという主張が展開され始める。 |
| 2023年7月?日 | Lynnと市ノ瀬加那が「アスティカシア全校集会」影ナレを収録する(ブルーレイ最終巻収録オーコメより) |
| 2023年7月26日 | 月刊ガンダムエース2023年9月号発売される。キャストインタビュー中の「結婚」という文言がバズる。 |
| 2023年7月30日 | 水星の魔女公式ウェブサイトでガンダムエースの文言修正の経緯の説明が掲載される。 |
| 2023年7月末から8月初旬 | 水星の魔女はやはりクィアベイティング作品だったという主張が展開される |
| 2023年8月6日 | アスティカシア全校集会影ナレでスレッタとミオリネが「パートナー」であるという発言がなされる。 |
| 2023年12月22日 | ブルーレイ最終巻発売。小林寛監督のインタビューにおいてスレッタとミオリネが結婚する結末は当初より決まっていたと明言される。 |
影ナレ収録とガンダムエース向けインタビューのどちらが先だったのかは手元の資料からは判断できないが、いずれにしても市ノ瀬加那(とLynn)に対しては、そのような理解で演技をしてくれというディレクションが最終話の録音(動画は出来ていなかったので止まった絵での収録だったとのこと。オーコメより)時点であった可能性は小さくはない(むしろ「大きい」。なにしろあれだけ様々な要素で結婚を示唆しているのだ)。そのディレクションがガンダムエースのインタビューで妙な働きをしてしまったわけだ。
公式による説明文を以下に示す。
「ガンダムエース編集者の憶測による文面が存在し、校正時に修正依頼を行ったにも関わらず、該当箇所の修正が反映されないまま責了となり、7月26日に発売されることとなってしまいました」
この文章は以下のような内容を表明している。
- 市ノ瀬加那が「結婚」と発言したとされている部分はガンダムエース編集者が実際の市ノ瀬の発言を清書した際に紛れ込んだものである。
- 当該の文言は校正時に修正依頼を行っている。
- しかしながらガンダムエース編集部のミスにより修正依頼が反映されず、責了(責任校了の略。修正依頼の反映確認を依頼側ではなく被依頼側の責任で行って、そのまま校了とすること)となった。
- そのまま印刷されたものが7月26日に店頭に出回った。
この文章に嘘が無いという前提のもとに、状況を推測してみよう。
まずインタビューについて。実際にインタビューをして記事にした経験がある者であればわかると思うが、人間の口頭での発話は各種記事になっているほど淀み無く行われるものではない。社会学のエスノメソドロジーと呼ばれる分野では、実際の発話を可能な限り精密に記録するための記号が用いられている。
だが、雑誌記事のインタビューでこんなものを使うわけにはいかないので、ライターが発話内容を清書して記事にする。「水星の魔女」公式の説明を信じるならば(そしてそれを信じるに足らないと判断できる材料は管見の限りは公表されていない)、この過程で「結婚」という言葉が入ってしまい、修正依頼をしたにも関わらず編集者がそれを反映させないまま責任校了にしてしまった、となる。
この時点でこのような処理を行った理由を確定することは我々には出来ないが、一つの説としては「アスティカシア全校集会」での影ナレの効果を最大化したい、という意図があったのかもしれないと既に述べた。
当時、中国で水星の魔女を売るためにボカしたんだろうなどと攻撃されたが、4年後の現在でも水星の魔女は中国ではオフィシャル配信されていない。「中国で売る気満々だったからガンダムエースでの発言を揉み消した」説が正しかったのなら、とうに水星の魔女は中国で配信されているだろう。
この事件についてはバンダイナムコフィルムワークスのホモフォビアによるものである、という主張が目立つが、それが疑いの余地のない事実であることを証明できるもの(たとえば担当役員が同性婚を忌避する思想をもって下した指示文書など)は今のところ提示されていない。もしも同社法務が発信者情報開示請求からの偽計業務妨害による仮処分申請や損害賠償請求の民事訴訟を提起したら(しないとは思うが)、バンダイナムコフィルムワークスのホモフォビアやクィアベイティングが存在したと断定している論者はなにがしかの賠償金を支払うことになる可能性は大きいと私は思う。特にnoteやyoutubeでそのような断定をしている方々については、現在の東京地裁が発信者情報開示を命じるハードルは極めて低いことも併せて、一応の警告はしておきたい。
私個人の解釈としては、あれだけ作中に「結婚」を示唆する記号や発言を散りばめてあるのだから、いわゆる「考察」によってスレッタとミオリネが結婚したことはすぐに指摘される(された)であろうし、小林監督はその過程を楽しんでもらいたかったのではないだろうか。それがいきなりインタビューで答えを書かれてしまっては「考察」の楽しみが無くなるというものだ。(よもやクィアベイティングなどと言いがかりをつけられてレイジベイティングの餌にされるとは予期していなかったのだろう)
余談だが2026年2月末現在、アマゾンではアスティカシア全校集会ブルーレイは8割引なので、持ってない人は買っておこう。
2-3:法律婚問題
これについては作中では17歳から結婚可能になるという設定があり(3話のミオリネのセリフ「結婚できるのは17歳からでしょ。だから私の誕生日まで結婚はお預け」)、スレッタはそのミオリネの17歳の誕生日のグエルとの決闘においてあらためて「一緒に指輪買って式も挙げて二人とも最高のドレス着て」と宣言している。法律婚する気100%だ。
そしてエピローグでスレッタとミオリネが二人とも指輪を左手薬指にはめており、ミオリネはスレッタに「帰りましょ」と呼びかけている。
スレッタの体調の問題で挙式はまだなのかもしれないが(劇場版の冒頭かラストで見せてくれることを信じてます)、これで二人が絶対に法律婚をしていないと主張するのは無理がある。これでもまだ不足だというのなら、婚姻届の提出シーンを描くしかない。それ以外のシーンでミオリネが「ミオリネ・マーキュリー」になっていたりスレッタが「スレッタ・レンブラン」になっているようなテキストを入れ込む描写も可能だが、そうしたらしたで「夫婦別姓制度実現に対する反動勢力」だとか別の難癖をつけられるだろう。
それに、そもそも日本国で同性婚の法制度化が進まない責任をTVアニメに背負わせる時点で何かが根本的に間違っているのではないか。また、クィアの中にも「水星の魔女」に関して法律婚や明示的な恋愛感情(や性愛)を重視しすぎる論調に対して疑問を投げかける声があったことは指摘しておきたい。
2-4:セクシャリティ / クィアリーディング
スレッタのセクシャリティに関しては、セクシュアル・フルイディティ(性的指向が流動的に変化する)があったようにも読み取れるが、作中で最も明確に、なおかつ繰り返し繰り返し表現されたのは、ミオリネに対する恋愛感情である。
ミオリネはシャディクに告白されたときに「今さらよ」と呟いているので、ミオリネもまたセクシュアル・フルイディティがあったのではないかとも解釈できる。とはいえ、ミオリネ役のLynnは月刊ニュータイプや週刊文春エンタ+のインタビューにおいて、シーズン2では「常に「スレッタには幸せになって欲しい」という思いを軸に持つようにしていた」と語っており、監督や音響監督のディレクションでそれが修正されなかったということは、ミオリネもまたスレッタに強い愛情を向けていたという形の演出が一貫していたと判断できる。
全体的に言って「水星の魔女」はジェンダーやセクシャリティをテーマとして扱っていないので、そこに拘りすぎてもあまり得るものは無いのではないか。
もちろん「水星の魔女をクィア・リーディングする」という試みも面白いだろう。あまり焦点化されてはいないが、ソフィとノレアの関係性やサビーナとニカ、あるいはチュチュとニカの関係性、ソフィとスレッタの関係性などをクィア・リーディングするような読みには「水星の魔女」理解を更に拡張できる可能性があるように思う。グエルとラウダについてのその種の「読み」が非常に多かったことは周知の通りである。
が、それらはあくまでも無数に考えられる「読み」の可能性の選択肢だ。
付記:ごく初期の(BLではなく「やおい」と呼ばれた)フィクショナルなゲイの二次創作についての批評としては中島梓の『コミュニケーション不全症候群』(筑摩書房、1991年)は当時読んでなるほどと思ったが、その後の議論の展開は追っていないので、クィアリーディングやクィアに関わる二次創作についての私の理解は非常に浅いことを表明しておく。男性同性愛を扱った作品で読んだことがあるのは萩尾望都「トーマの心臓」「11月のギムナジウム」、魔夜峰央「パタリロ!」、竹宮恵子「風と木の詩」、河惣益巳「ツーリング・エクスプレス」、「火輪」程度である。
私が卒論を指導した学生で「へたりあ」を取り上げた者もいたが、それは15年も前の話である。
2-5: スレッタとミオリネの恋愛感情描写の少なさ
グエルやエラン5号やシャディクの片思いはわかりやすく描写したくせに、肝心のスレッタとミオリネがベタベタするシーンが無かったのはおかしい、という声もある。が、これはもう、そういう作品ですから物足りなければ二次創作どうぞという以外にないのではないか。現にPixivあたりに行けばいくらでもそういうものはあるのだし、制作に関わったアニメーターたちが二次創作の同人誌を2023年8月のコミケットで売ったくらいだ。公式お疲れ様本も出ている。それらの中にはベタベタしているスレミオのカットも山ほどある。公式が本編終了後も大量に供給しているスレミオ関連の商品も「水星の魔女」を構成する重要な一部だ。二人の声を担当した市ノ瀬加那・Lynnのお二人がスレミオの恋や結婚は議論の余地がない社会的事実と捉えていることも各種のインタビューを読めばわかる。
これはつまり、「水星の魔女」を制作・視聴した人たちの多くは、本編作中でのキスシーンやセックスシーンが無くても、それを補って余りある「スレミオ」コンテンツの膨大な供給によって、二人はそういう関係であると認識し、納得し、妄想しているということを意味する。
さて、2000年代の日本のアニメやマンガのキャラクターたちはファンダムの中で共有される、いわゆる「データベース」に登録されており、本編テクストから独立して存在しているという東浩紀による「データベース消費論」は、現代では卒論レベルで常識である(知人の大学教員が2025年度に指導した卒論を読ませていただく機会もあったが、当然のようにこの概念が援用されていた)。そのデータベースの中でスレッタとミオリネは「水星の魔女」本編最後に結婚したということは公式設定として明記されており、それを当然かつ疑問の余地のない前提とした公式非公式の「スレミオ」コンテンツは今もなお生み出され続けているのだから、本編でのわかりやすい恋愛描写の少なさは、データベースにおける二人の関係性についての記述に大した影響を及ぼさなかったと考えうる。
重要なのは、「水星の魔女」が制作された2020年代において、アニメ作品は本編テクストに加えてムックや雑誌記事、雑貨、ブルーレイ、公式イベント、ノベライズ、コミカライズ、公式スピンオフそしてもちろん二次創作、ファンダムでの言説まで含めたものが「作品の体験・享受」である、という構造だ(たとえば「水星の魔女」や「ジークアクス」がSNSでの議論の喚起に意識的な演出を採用していたことは各所で指摘されている)。ここを理解(あるいは納得)できなければ、「水星の魔女」を十二分に楽しむことは難しいだろう。
以下に岡本プロデューサーのインタビューを引用しておく。
この『水星の魔女』はバンダイナムコグループが総力戦で盛り上げていくプロジェクトなので、ガンプラ、音楽、タイアップ……と非常に多くのチームが動いています。アニメ本編を作る私たちは、各チームから上がってくる企画や施策のアイデアを「さあ、どうやって作品とつなげていこう?」とその都度考えていく必要があります。
本編を作りながら、「こういう企画が来ました!」「では、このようにしましょう」「次はこんな企画が来ました!」「そちらはこういう風につなげましょう」……という作業の連続なんです。
もちろん、相乗効果が生まれるよう、つなげていく努力はしましたが、やはり巡り合わせもたいへん大きかったと思っています。
私たちが想像していなかったようなことが次から次へとやってきて、出会い頭でどう対応するか? 瞬発的な作用から起きた化学反応なのかな、とも思います。
ちなみに「アスティカシア全校集会」での11話と22話のスレッタとミオリネのシーンの生アフレコはテレビ本編より遥かにウェットに演じられている。(『小説機動戦士ガンダム 水星の魔女3』巻末収録のLynnのインタビュー、308ページにおいて、特に昼の部の11話は泣きを多めに入れた演技になったとある)
こちらも「水星の魔女」公式コンテンツである。スレッタとミオリネの関係を検討するときにこちらも見ないのは手抜きではないのか。こうしたものも丁寧に先入観無しに見て結論ありきではない議論を行うのでなければ、グリーヴァンス・スタディーとしてバカにされた先人たちの列に並ぶだけである。
2-6:ニカの「いいの?」とエリクトの「いいの?」
6話で決闘に勝ったスレッタがエラン4号をコクピットから引っ張り出したところで、それを見ていたニカが隣にいるミオリネに「いいの?」と尋ね、ミオリネは「私は理解ある花嫁なの。多少の浮気くらい許してあげるわ」と答える。
一方、最終話でシャディクとの面会を終えたミオリネにエリクトが「いいの?」と尋ね、ミオリネは「何が?」と返す。
例えば、6話の時点ではミオリネはまだスレッタに自分の恋愛感情を伝えていないのだが(それは11話のあのシーンを待つ必要がある)、ニカは既にミオリネにとってスレッタが特別な存在になっていることに気づいていた。ミオリネもそれを特に否定しない。そんな解釈もできる。だが、他の解釈も可能だ。
一方、最終話では既にミオリネはスレッタと結婚しており、自分に対する片思いは知っているが、それでもシャディクは過去の何かでしかないし、今さらシャディクに何かそれ関係の言葉をかけても、誰のためにもならない。だからミオリネは、自分とシャディクの間には何も無いということを強調した。そんな解釈もできる。だが、他の解釈も可能だ。
アメリカ産の娯楽映画やある種の少女漫画のように「この二人は恋人同士である」ということを求愛シーンやキスやセックスという記号を集積して、誰にでも理解できるところまで明確にその設定を表現するというのも一つの方法論として尊重はするが、あえてそれをせず、色々な解釈が可能な演出が行われていることが、「水星の魔女」におけるスレミオ描写の良さであるという考え方もできるだろう。私は少なくとも、その立場だ。11話の告白シーンと22話の復縁シーンと24話のエピローグを100回以上は見ている私だが、この二人はハリウッド映画や少女漫画のようなあからさまなラブシーンが無いからこそ様々な想像の余地が残されているのだし、そこが素晴らしいのである。長谷川等伯の松林図と同じだ。
論点3:百合アニメとして云々
「百合」の定義が広すぎる
「百合アニメ」というものが何を指すのかよくわからなかったので、今検索してみてなんとなくはわかった。とにかく女性がいっぱい出ていれば、そして男性キャラクターの役割が極めて限定されていれば「百合アニメ」のようだ。
この中だと見たことがあるのは「まどか☆マギカ」「けいおん!」「ヤマノススメ」「まちカドまぞく」「ゆるキャン△」「リコリス・リコイル」「ぼっち・ざ・ろっく!」「リズと青い鳥」「少女革命ウテナ」「リンカイ!」「夜のクラゲは泳げない」。個人的に女性の同性愛を描いたアニメで最も印象深いのは「くりいむレモン エスカレーション」(純文学作家の稲葉真弓が別名義「倉田悠子」でノベライズしてミリオンセラーになったことで有名)なのだが、さすがにこういうところには入れないか。改めて調べたところ、このシリーズで女性間の性愛表現は他にも「POPチェイサー」「いけないマコちゃん MAKO・セクシーシンフォニー」「STAR TRAP」「黒猫館」「なりすスクランブル」で確認できた。
個人的にはダグラムやWind Breakerやハイキュー!!やキャプテン翼のように男ばかり出てくるアニメが薔薇アニメと呼ばれないのに、女性がいっぱい出てくるだけで百合アニメということになってしまう現状自体、かなり歪んだ言説状況だと感じる(それがダメとは言っていない)のだが、経緯はどうあれ「百合」という市場が立ち上がっており、それをめがけたマーケティングも盛んに行われていることは事実である。

その歪みの中で楽しく生きている人たちが「水星の魔女」を「百合アニメ」として良い悪い好き嫌いを論じることは、とても良いことだ。だが、「クィアベイティング」に関する議論と同様、一方的に「百合」としての期待を募らせた上で、それが満たされなかったことに不満を持つのは、制作サイドに対してあまりフェアではないように感じる。
北村紗衣が『批評の教室―チョウのように読み、ハチのように書く』の2章の「価値づけする」という節の冒頭に、批評に対象の価値判断を含めるかどうかは個々人の考え方次第なので、それを含めるべきではないという人はここを飛ばしてくれと書いていたが、私は「ある作品の自分にとっての価値」は大いに語るけれども、その作品が他人にとって一般的にどのような価値があるかなどは外乱が多すぎて考えるだけ無駄、と思う立場である。
女性キャラクターが大量に出ていれば「百合」アニメととらえる視線の限界
「水星の魔女」「まどか☆マギカ」「けいおん!」「ヤマノススメ」「まちカドまぞく」「ゆるキャン△」「リコリス・リコイル」「ぼっち・ざ・ろっく!」「リズと青い鳥」「少女革命ウテナ」「リンカイ!」「夜のクラゲは泳げない」。
私にとっては、これらの作品は同じジャンルではない。以下の表5に個人的なカテゴリ認識をまとめる。
表5:「百合アニメ」と別カテゴリ分類の可能性
| 作品名 | 同じジャンルと思う作品 |
|---|---|
| 水星の魔女 | ガンダムシリーズ、太陽の牙ダグラム、ルルーシュなどSFロボットアニメ全般 |
| まどかマギカ | 涼宮ハルヒの憂鬱、エヴァンゲリオンなどセカイ系アニメ |
| けいおん! ぼっちざろっく リズと青い鳥 夜のクラゲは泳げない | ガールズバンドクライ、ロックは淑女の嗜みでして、響けユーフォニアム、TARI TARI、この音とまれ!、青のオーケストラなど高校生音楽もの |
| ヤマノススメ ゆるキャン | スーパーカブ、放課後ていぼう日誌、ろんぐらいだあすなど高大生アウトドアもの |
| 少女革命ウテナ | 天使のたまご、ウィッカーマン、マルコヴィッチの穴、輪るピングドラムなどのカルト作品 |
女性キャラに対するShipper(カップリング妄想を好む人たちのこと)のまなざしが強い人たちにとっては、これらのアニメ作品は「百合」なのだと思うが、Shipperのまなざしを持たない消費者も市場には多いことを忘れるべきではない。
ジェンダー論では男目線(male gaze: 女性を一方的に性的に、そして客体的に、なおかつ従属的な存在として見る視線のこと)やそれに対抗する概念としての女目線(female gaze)が分析ツールとして用いられるが、「百合のshipper目線(yuri shipper gaze)」という概念も可能かもしれない。個々の消費者がそうしたまなざしを持つことは仕方ないことでもあるし、それを喚起するようなマーケティングが広く行われていることも間違いない。だが、そのようにしてファンダムとマーケターが共犯者として創り上げてきた百合shipper目線と「(上野千鶴子言うところの)当事者主権」が奇妙な形で結びつくと、我々が生きているこの世界なのか、それに良く似た異世界なのかすらわからないアド・ステラ世界の女性カップルの描き方にすら「当事者であるという自己認識を持つ百合shipper」が何らかの権利を持つというような思考が生まれてしまうのかもしれない。
ごく個人的な話になるが、私がスレッタとミオリネの二人を応援してしまう理由は彼女たちが女性+女性だからではない。ガンダムシリーズで言えば他に私が推しているのはバナージとミネバ、マリュー・ラミアスとムウ・ラ・フラガ。どちらもヘテロのカップルだ。他IPだが河惣益巳の「ツーリング・エクスプレス」のシャルルとディーン(ゲイ・カップル)だって推している。全てに共通しているのは精神的にも立場的にも安定したパートナー関係である、という点である。すなわち私が好むのは安定したパートナーシップという属性なのであって、カップルのジェンダーやセクシャリティはどうでも良い。
中島梓による「JUNE」と「やおい」論の記憶から現代の「弱者男性」「インセル」論を想起する
手元に文献の現物が無いので記憶を頼りに書くが、1980年代前半に中島梓は雑誌「JUNE」において男性同性愛小説の創作コミュニティを運営した後、1980年代末に「やおい」(男性同性愛をテーマとした創作の一類型。JUNEが悲恋やSM関係を多く描いたのに対して「やおい」は「やまなし おちなし 意味なし」の略であり、中島が好んだ劇的な展開は描かれなかった)論を文芸批評の形で展開している。そこで中島が図式化していたのは、今の言葉を使うならば女性たちがmale gazeから解放される創作の空間が「やおい」である、というものだった。「やおい」では女性に興味を持つ男性は登場しないから、女性に対するmale gazeも存在しない、という理屈である。
この構造のジェンダーをひっくり返すと、男性が女性によって品定めされない物語空間としての「百合」というものが(理論上は)あるのかもしれない。私は本当に「百合」文化には詳しくないので実際にどうなのかはわからない。「弱者男性」論から「百合」を好む男性を嘲笑するような書き込みはウェブでは多く見つかるが、それらは学術的なものではないので、現実を反映しているものと直ちに判断は出来ない。私はあらゆる意味で「弱者男性」ではないので、「弱者男性」から見た「百合」がどんな意味を持つのかもわからない。
小林監督のインタビューから何が推察可能か
さて、小林監督はインタビューで以下のように話している。
「またアニメ全体で見ると、女性が主人公の作品はまったく珍しいものではありません。なので、先ほどお話しした「学園もの」と同じで、ガンダムで初めて女性がTVシリーズの主人公になったというだけで、新しい要素ではないと思っています。あとは個人的にキャラクターをつくる時に、男性だからこう、女性だからこう、というジェンダーからパーソナリティを組み立てることはしません。例えば物語の要素として、自分のジェンダーに何かしらの迷いや考えをもったキャラクターを登場させるなら、その場合はジェンダーに左右されるかもしれませんが」(前掲書5ページ)
これを素直に読めばシスジェンダー女性のスレッタが主人公になったのは「新しい要素ではない」。また、ジェンダー部分でのアイデンティティに悩みを持っていたように見えなかったスレッタとミオリネがいずれもシスジェンダー女性だったのも特別なことではない。少なくとも小林監督はそのように考えていると思われる。
言い換えると、「水星の魔女」は深夜アニメのようにいわゆる「百合」市場を狙って企画・制作・投入されたのではなく、たまたま「百合アニメ」としても消費できるものであったという作品ではないだろうか。もちろん「百合アニメ」としても消費されることは想定されていたであろうが、それを主軸にした企画やマーケティングを行うならば、「ワールドウィッチーズ」や「荒野のコトブキ飛行隊」のように若い女性だけでガンダムチームを編成する方が、「百合」市場内でのビジネスは圧倒的に立ち上げやすい。


稲葉振一郎による分析
稲葉振一郎(社会学者)は彼のブログにおいて以下のように「水星の魔女」を分析している。
もちろん『水星の魔女』は意匠としての百合を利用しただけであってクィアにコミットしようとしたわけではない。また百合も主題というよりは本来の主題の副産物として導き出されたものではなかろうか。本来の主題が何かといえば、訴求力の強いテレビシリーズとしては初の女性主人公のガンダム、というところである。ただそこで、それでは主人公の傍らに配するパートナーをどうしようか、という問題が浮上した。そこでパートナーを男性にしてしまう、という選択肢ももちろんありえたのだが、女性にしてしまった。その結果が百合というフォーマットの採用である。そのように考えるならば、女性を主人公、エースパイロットにするという点では性別役割批判として革新的だが、サポート、バックアップ担当のパートナーもまた女性にしてしまったという点では、むしろ不十分だった。こういう意地悪な見立てもできる。海外クィア勢からの率直な支持に比較したとき、国内クィアからの反応がいまひとつだったとすれば、それはながらくガンダム、そしてロボットアニメというジャンル、フォーマットに付き合ってきた日本人の経験が反映していたのだろう。
稲葉の指摘もこれはこれで面白いのだが、各種の資料を見る限りでは「水星の魔女」はクィアの権利獲得運動にコミットした作品ではないのと同時に、ジェンダーロールの転倒を主題の一つにした作品でもないようなので、抹茶アイスを作って売ったら「これは正しい抹茶ではない」とか「これは氷菓子における小豆餡と抹茶の伝統的な主従関係を転倒させるには至っていない、という意地悪な見立てもできる」と言われてしまっているように見える。それもガンダムという超大型IPの宿命であろうし、こうして色々言われることはガンダムというビジネスに取ってはプラスなので、WIN-WINの関係と言えるだろう。
またガンダムシリーズでは女性のエースパイロットは珍しくなかったし(ハマーン・カーンやララァ・スン、マリーダ・クルス、アイナ・サハリンなど)、女性のリーダーも当たり前に存在した(ハマーン・カーン、ミネバ・ザビ、マリュー・ラミアス、スメラギ・李・ノリエガ)。女性エース+女性指揮官にしたら「百合」だの「ジェンダーロール」だのと人文系インテリにイジられてしまった「水星の魔女」には同情を禁じえない。他に見るとこないのか君たちはと思う。
近藤銀河・水上文・中村香住『はじめての百合スタディーズ』
付記:本節については近藤銀河・水上文・中村香住『はじめての百合スタディーズ』(太田出版、2026年)の内容を確認した上で改稿を行う可能性がある。この本には「水星の魔女」についての批判がそれなりの分量で収められているというが、同書は私の近所の書店では3月2日現在も見つけることができない。
Amazonを始めとするネット上のレビューや感想はかなり厳し目の本のようで、アカデミックな内容ではなさそうなのが気になるところだが。(私の理解では著者3人のうち2人は修士、1人は博士のはずであるが・・・・)

親世代と子世代の対立、革命と挫折
論点4:親子関係
小林監督のインタビューにあったように親世代と子世代の対立は「水星の魔女」において非常に大きなテーマになってはいたが、では親世代を絶対悪として描いて最終的に完全に討伐・排除されるような話にしたらもっと面白かったとも思えない。
より詳しく見てみると、親世代はいずれも会社経営者であったが(表1)、子世代の活躍で各社かなりのダメージを受けている。ジェタークが残ったのは少し意外だったが、ヴィムのキャラはともかくとしてジェターク寮自体は結束力も高く公平に見て優秀で誠実な人材が揃っていたから、潰す展開にする意味は無かっただろう。
表1:「水星の魔女」における親世代の企業のビフォーアフター
| キャラクター | 会社 | エピローグ時点での会社 |
|---|---|---|
| デリング・レンブラン | ベネリットグループ | 長女ミオリネにより解体 |
| ヴィム・ジェターク | ジェターク社 | 長男グエルがヴィムを(正当防衛とはいえ)殺してしまったことで経営危機に陥るが、グエルが継承。ジェターク寮OBOGも参加。ブリオン社を継承したエランとセセリアのサポートもあって業績は回復基調らしい。 |
| サリウス・ゼネリ | グラスレー社 | 地球資本に売却。 |
| プロスペラ・マーキュリー | シンセイ開発公社 | 開発部門は株式会社ガンダムに買収されて存続。 |
| 四魔女 | ペイル社 | ミオリネによって地球資本に売却。開発部門は株式会社ガンダムに買収されて存続。 |
| ブリオン社 | エラン・ケレスとセセリアが経営。ジェターク社とも協業している模様。 | |
| 株式会社ガンダム | ベネリットグループ解体後も事業継続し、ミオリネが経営。 |
全てが崩壊して若者世代だけで新天地・新世界を作るエンドというと、私の年齢だと「メガゾーン23」や「AKIRA」を思い出すが、物語のたたみ方として好きなのは「水星の魔女」である。デリングもヴィムもエルノラ(プロスペラ)もサリウスも完璧な親とは言えないが、この世に完璧な親などというものがあり得るわけもなく、良いところもあれば悪いところもあるし、悪いところがあったとしても子供たちから慕われるというのも珍しいことではない。実際に親となって新生児から成人まで我が子を育ててみてわかることも多々ある。親としての経験を持たない若い論客たちが親世代の討伐され具合が甘いと文句を言っていたのもみたが、OKY(お前が来てやってみろ)というのが正直な感想だ。
また、子世代は子世代で一方的に親世代の負の遺産をクリアしていったわけでもなく、それぞれ大きな挫折を味わっている。
表2:子世代の挫折
| キャラクター | 挫折の形 |
|---|---|
| ミオリネ | クイーンハーバー事件やアスティカシア高専でのノレアの暴走のきっかけとなってしまう。またサリウスが自分に全責任をなすりつけろと忠告したのを断った結果、議会連合艦隊の介入を止められず、クワイエットゼロによる議会連合艦隊の壊滅に至る。 |
| グエル | ドミニコス隊のエースになるという当初の目標は失われ、学園最強パイロットの座をスレッタに奪われ、ヴィムを殺すはめになり、さらに地球に拉致されてスペーシアンによるアーシアン弾圧の地獄絵図を目撃。 |
| シャディク | ベネリットグループ解体の陰謀は潰えてシャディクは収監される。 |
| スレッタ | 明るい学園生活の夢は壊れ、血みどろの陰謀に巻き込まれて自身もテロリストを殺害する羽目に。また暴走したソフィをエリクトが殺害する現場にも立ち会ってしまう。 |
つまり、これらの挫折からどうやって先に進むかという問題が「水星の魔女」のテーマだったわけだ。白馬の王子様は全く関係ないし、家父長制も子世代にのしかかる困難の一部でしかない。
論点5:それぞれの「生きづらさ」とグローバル資本主義
まず、小林監督がインタビューで語っていた子世代それぞれの「生きづらさ」について整理してみる。他にも色々あるだろうが(インタビューでは地球寮メンバー全員に詳細な設定があるという)、本節の議論ではそれらを網羅する必要は無い。
表3:子世代の「生きづらさ」
| キャラクター | 生きづらさの原因 | 最終話までに起こった変化 |
|---|---|---|
| ミオリネ | 父による主体性の剥奪 | デリングが築いたベネリットグループを解体し、起業家として独立。スレッタと結婚。 |
| スレッタ | 被差別民。母によるマインドコントロール。 | ミオリネや地球寮の仲間たちによってマインドコントロールから離脱。教育家として再出発。ミオリネと結婚。 |
| グエル | 父による主体性の剥奪 | ジェターク寮を出て放浪の後、帰還。父を殺してしまったことと向き合い、残されたジェターク社の建て直しに邁進。 |
| エラン4号 | 使い捨ての部品扱い | ペール社に抹殺されるもデータストーム空間に潜伏し、最終決戦でスレッタとともに議会連合の巨大レーザーを止める。 |
| エラン5号 | 使い捨ての部品扱い | 生き延びることに徹底的にこだわり抜き、ペール社から株式会社ガンダムに移って最終決戦にも参加。戦後はノレアの慰霊の旅に出る。 |
| ラウダ | グエルとの方向性のズレ | ペトラと相思相愛になりジェターク社から離れる。兄への精神的依存からの自立。 |
| ニカ | フォルドの夜明けやシャディクのためのスパイ活動の強要 | フォルドの夜明けとの関係を自首して服役。出所後は株式会社ガンダムにチーフエンジニアとして復帰。 |
| チュチュ | 被差別民・貧困 | パイロットとしての高い実力とネキとしての行動力により、実力でスペーシアンからも一目置かれる存在になる。 |
| シャディク | 被差別民の出自・革命思想。ミオリネへの片思い。 | テロリズムによるスペーシアン支配体制の打倒を目指すもグエルにより阻止され、服役。ミオリネへの恋は破れるもエピローグ(ブルーレイ版)ではミオリネの結婚指輪を(おそらく)見届ける*1。 |
| シャディク・ガールズ | 被差別民の出自。 | シャディクとともにテロに身を投じるも阻止され、戦後はアーシアンとスペーシアンの交渉の仲介役として活動*2。 |
| ソフィとノレア | 貧困・被差別。 | 被差別民出身のエリートであるシャディクに鉄砲玉として使い捨てられ、戦死。最終話ではエラン4号同様にデータストーム空間の中にいることが描写された。 |
| 地球寮メンバー | 貧困・被差別 | 株式会社ガンダムで医療機器としてのガンダム開発に従事。 |
| ロウジ | 自閉症 | ブリオン寮から株式会社ガンダムに進み、医療機器としてのガンダム開発に従事。 |
*1 TV放送時にはミオリネの指輪は地球に降りてからしか確認できないが、ブルーレイ版ではシャディクとの面会を終えて地球に向かうミオリネの左手薬指に指輪が描かれている。エリクトの「良いの?」という質問と「小姑のいうことは聞いとくものだよ」というセリフから、この時点でミオリネとスレッタは結婚している可能性が大きい(小姑とは配偶者の姉妹のこと)。ミオリネがシャディクとの面会時にだけ指輪を外していた可能性もないではないが、ミオリネにはそれをする理由が無い(私には思いつかない)。
*2 最終巻ブルーレイブックレットでは「地球側のコーディネーターとしてミオリネに同行」と書かれている。
意外に少ない親子関係問題
こうしてみると意外に親子関係問題は少ない。ただ、メインキャラの3人(スレッタ、ミオリネ、グエル)が親子関係を軸としていたので、水星の魔女は親子関係の話が中心のアニメに見えたのかもしれない。私は周回回数がわからなくなったくらい周回を重ねているので、スレミオグエル以外のところも存分に見させていただいている。
たとえば植民地人の優秀な子供が宗主国の名門校に入ったことで様々な鬱屈を抱える描写(シャディクや地球寮チーム)、そうした中で更に支配体制に入り込もうとした子(シャディク)が同じルーツの被差別民(ソフィとノレア)を仲間扱いしない現象など、差別の問題についてかなり解像度高く描かれていると思う。更によく見るとグラスレー寮の中でもシャディク・ガールズのリーダー格のサビーナはニカの能力と人格を認めて仲間になるよう誘っており、シャディクとシャディクガールズの間でも考え方に差異があったりするのが面白い。
エラン4号と5号も現代で言えば人身売買や人体実験やロシア軍のような深い闇の中の存在だ。5号についてブルーレイ最終巻の小林監督のインタビューで、着地点を決めずに出したキャラだったと語られているが、結果的には(ロシア軍レベルで鬼畜な)ペイル社の使い捨てから逃げて逃げて逃げ切っただけでなく、ノレアの説得、4号の運命のスレッタへの開示、クワイエットゼロ突入戦ではミオリネを手堅くサポートと尻上がりに調子を上げていった感じで、個人的にはグエルと並ぶ推しキャラだった。
「水星の魔女」はグローバル資本主義の怪物性を解像度高く描いた
「生きづらさ」に話を戻すと、スレミオグエルは確かに親子関係が「生きづらさ」を構成していたが、この三人以外のほとんどは親子や家族ではなく強大で情け容赦のない資本主義による抑圧や搾取の構造の中にいる。企業、特にアメリカ流の極端な弱肉強食を貫く企業の暴力性や、そうした強大な企業の中でコネやメリトクラシーでそこそこのポジションを手に入れた者への反感など、周回を重ねると「水星の魔女」のテーマは「親子関係」よりもむしろ「グローバル資本主義の暴力性と、それらへの多種多様な抵抗の企て・挫折・継続」にあることが見えてくる。そしてミオリネとデリング、グエルとヴィム、スレッタとプロスペラの関係性にも全てこれが編み込まれている。「水星の魔女」がガンダムシリーズとしてどう新しかったかといえば、百合云々よりもむしろグローバル資本主義の怪物性を解像度高く描いたことにあると言えそうだ。
もちろんUCものにおけるアナハイムやビスト財団は言うに及ばず、ダブルオーやオルフェンズでもグローバル企業は大きな役割を果たしていたが、エゥーゴやロンド・ベルやソレスタルビーイングや鉄華団はグローバル企業集団の外部に立ち上げられた、グローバル資本主義とは異なる思想・仕組みで動く武装組織だった。ところが「水星の魔女」では主人公たちはグローバル資本主義の覇者であるベネリットグループの運営する私立の高専の学生であり、兵器産業の次の担い手として教育を受けているし、モビルスーツもベネリットグループから供給を受けなければ全く手に入らない。これは小林監督がインタビューで語っていた通り、意図された構造である。
「つまり、このアスティカシア高等専門学校の学生たちは、戦争とは無関係ではないんです」(『The Report of 機動戦士ガンダム 水星の魔女 Season2』3ページ)
だからチュチュやソフィやノレアはスペーシアンの学生たちへの激しい憎悪を抱えていたし、ミオリネやグエルは地球では常に糾弾される立場にあった。そしてベネリットグループへのテロという、言ってみれば昔ながらのガンダムの主人公のように悪の組織に武力闘争を挑んだシャディクはソフィやノレアやニカを搾取するという「ダブスタ」すら敢行したが、他の寮(ジェターク寮、地球寮)の支持を得ることなくテロは阻止されて終わる(武闘派が最後に穏健派に敗れて革命完遂出来ず、という構造は「太陽の牙ダグラム」に似ているが、小林監督がそれを意識していたかは不明)。
この「グローバル資本主義の暴威の中でのそれぞれの抵抗・挫折・再出発」という観点から見ると、7話から始まる株式会社ガンダムの起業ストーリーは必要不可欠なパートであったことがわかる。なにしろプロット上、ベネリットグループ解体は不可避なのだし、メガゾーン23やAKIRAのように文明崩壊エンドではグローバル資本主義を潰してクロマニヨン人や明石原人の時代に戻るようなもので、極論すぎる。戦いが終わったあとに主人公たちが再出発するためのハコは必要だ。加えてスタートアップというのは多産多死な世界で、そうそう生き残れるものではない。勢いで株式会社ガンダムを立ち上げたミオリネが嫌々ながらもデリングのメンタリングを受けて企業経営を学んでいく描写は、グローバル資本主義の描写にリアリティを付け加えていたと思う。ヤクザ映画ベースのオルフェンズで16歳のクーデリアがスルッとアドモス商会を軌道に載せてしまったのも、あれはあれで良いものだが、「水星の魔女」中盤でミオリネが弱小スタートアップを生き延びさせるために奔走してスレッタとの距離ができてしまう(11話から22話)構成は、ビジネスを絡めて二人の恋を描くという点では非常に良く出来ていた。
ミオリネによるオルタナティブな抵抗の小さな成果
そしてミオリネは多大な犠牲を払いつつもベネリットグループの解体を実行し、グローバル資本主義の暴力性への制度内からの抵抗を試みる。結果としてミオリネによる「革命」の効果は限定的であったことがエピローグでのサビーナの言葉から読み取れるが、それでも株式会社ガンダムは生き残って兵器産業から医療産業へのピボットを果たしている。スレッタやベルメリアは教育者としてグローバル資本主義に立ち向かっていく未来が示唆される。もしかしたらラストシーンの農場も株式会社ガンダムが経営しているのかもしれない(部外者があんなところに立ち入ることは出来ないので)。学校を作って子どもたちを集めて農場も経営して同性婚もしてというミオリネはオルフェンズのエピローグのクーデリアにかなり近いのだが、小林寛監督曰くグローバル企業がそれぞれ中世の荘園のようなものとして地理的にも勢力圏を構築しているという「水星の魔女」世界では、クーデリアのように政治家になるエンドではなくビジネスパーソンエンドになったのは納得だ。
グローバル企業の経営者という道に進んだグエルやエラン、セセリアも、「水星の魔女」事変(と仮に呼ぶ)の当事者として目撃したグローバル資本主義の悲劇は原体験として残るだろう。グエルはアスティカシア高専存続にも取り組んだことがエランのセリフから示唆されるが、少なくとも地球の地獄を自身で体験したグエルであるから、デリング時代のアスティカシアのような校風は改革されているはずだ。もちろん(エプスタインのように)最も邪悪であったペール社の四魔女を企業経営の場から追放できたのも、ミオリネたちの小さくない達成の一つである。
16-17歳の少年少女たちのグローバル資本主義への抵抗の第一章としては立派過ぎるくらいに立派なものだ。ここからなのだ。本当の勝負は。
革命と挫折はガンダムシリーズの基本
今さら言うまでもないが、ガンダムシリーズは革命とその挫折を描き続けてきたという側面も強い。知る限りでは革命が成功して世界が変わるエンドのガンダムは無い。しかもガンダムシリーズにおいて「世界を革命する力を!」求めるのは往々にして悪役サイドだ。
表4:ガンダムシリーズにおける革命とその結末
| 作品 | 革命勢力(太字は主人公サイド) | 結末 |
|---|---|---|
| ファースト | ジオン・ダイクン | ザビ家に乗っ取られて挫折 |
| ファースト | ザビ家 | 地球連邦に負けて挫折 |
| Z | エゥーゴ | グリプス戦役には勝ったが勢力は壊滅 |
| ZZ | エゥーゴ | 思想性が失われグダグダになって解体 |
| 逆襲のシャア | ネオ・ジオン(シャア) | シャアとアムロが刺し違えて尻すぼみに |
| ユニコーン | 袖付き | 指導者フル・フロンタルとミネバを失い、消滅。 |
| ユニコーン | ミネバ | ラプラスの箱の中身を公表するも大きな変化は起こせず終わる |
| ハサウェイ | ハサウェイ・ノア | 革命に失敗して処刑される |
| oo | リボンズ・アルマーク | セツナに負けて退場 |
| SEED | パトリック・ザラ | レイ・ユウキにジェネシス発射を阻止されて死亡 |
| 水星の魔女 | デリング・レンブランとプロスペラ・マーキュリー | スレッタとミオリネにクワイエットゼロを止められて終わる |
この表からもわかるように、革命と挫折という視点では、これまでのガンダムと同じ構造を持っていることがわかる。むしろガンダムシリーズの中では希望成分多めの終わり方をした方だろう。
エピローグでミオリネが宣言した「人の数だけ正しいがあるもの。いつか必ずどこかで間違うのよ。それでもできることをするの、この先も」、これが唯一の現実的な抵抗である。革命スッキリエンドが見たい人のためには、これがある(ただしその革命の規模はせいぜいがところセクハラ座長ニキの支配する小劇場から看板女優二人が脱出出来た程度のものであるが)。
ネオリベラル・フェミニズム / ポスト・フェミニズムとミオリネ
24話のミオリネに関してはネオリベラル・フェミニズムやポストフェミニズムという用語で批判したくなる向きも多分いるのだろう。ネオリベラル・フェミニズムとは新自由主義すなわち市場原理・自由競争を可能な限りの制約無しに行うことを良しとする考え方を受け入れた上で、その中での女性の権利拡大を志向する人々に対して、外部から与えられた名称である。
だが、そもそもミオリネは狭義のフェミニストではない。岡本プロデューサーのインタビューにもあるように「水星の魔女」の物語世界におけるジェンダーのあり方は21世紀の我々の住む世界とは大きく異なっていると思われるし、ミオリネが抑圧されていたのは女だからではなく、デリング・レンブランという強権的な父親の子供だったからである。同様に強権的な父親であったヴィム・ジェタークの息子グエル・ジェタークもまた父による強い抑圧下にあったことを想起されたい。
また、ネオリベラル・フェミニズムというものが仮に実在するならば、公助が極めて限られている以上、ケア労働は自助や共助に頼らざるをえないし、ネオリベラル・フェミニストというものが実在するならば、その人々はケア労働の領域に公助を適用することに批判的なのだろう。
だが、本編でも関連資料でもミオリネのパートナーであるスレッタやその母親プロスペラについてのケア労働がどのように担われているのかは全くわからない(おそらく多忙なCEOの仕事の合間にできることはやりつつも、多くは外注あるいは自社のものを含めたロボットで対応しているのだろうが)。この部分において、描かれてもいない「スレッタによるプロスペラの介護労働」がさも存在するかのように主張する「水星の魔女」批判については「まずはテクストをちゃんと見なさい」ということになるだろう。
また、ベネリットグループ解体後のミオリネは小林監督の言葉を借りれば「中世の荘園」のようなグローバル企業群が群雄割拠する一方で公共セクターとしての政府・統治機構が極めて弱い(あるいは存在しない)世界における、小さなスタートアップ企業の経営者に過ぎない。そもそもネオリベラリズムというのは強力な政府が存在した上で、政府による規制をできるだけ緩和して自由市場に任せようという思想であり、最初からその政府がほとんど機能していない中世世界ではネオリベラリズムもリベラリズムも無いのである。そんな恐ろしい世界で、被差別民である地球寮のOBOGたち、被差別民である水星出身の配偶者、被差別民であり一度は武力革命に挑んで一敗地にまみれたグラスレー寮のOGたちと協力し、かつて被差別民である水星の魔女たちが願った「GUND技術を身障者の医療器具として活用する」プロジェクトに挑みつつ、また親世代と自分たちのすれ違いから発生した災厄の贖罪も引き受けつつ、被差別民の地である水星と地球で学校経営に取り組む身障者のパートナーと共に生きるのがミオリネだ。
これのどこがネオリベラル・フェミニストなのか。
ミオリネの「その後」が「女性起業家」だったことそのものが生理的に気に食わないという人もたぶんいるのだろうが、自身の両親デリングとノートレット、そしてパートナーであるスレッタの母親プロスペラが深く深く関わった「水星の魔女」事変の当事者として、「まだ終わっていない」(エピローグのデリングらの公聴会シーンで表示されたテロップ)クイーンハーバー事件やクワイエットゼロ事件の後始末に奔走する彼女が、そしてアスティカシア高専でも経営戦略科の学生であった彼女が、いきなり「大学教員」や「ジャーナリスト」や「フリーライター」や「アーティスト」という、ネオリベフェミニズムを忌避する日本のフェミニストたちが好むキャリアに進むというのも想像しづらい(なお、日本の大学が大学院生や非常勤教員に対する苛烈な搾取構造によって成り立っていることは周知の事実のはずである)。
「水星の魔女」はグローバル資本主義の中で共犯者として生きざるを得ない若者たちの生きづらさ、革命の挫折とその先の再挑戦が描かれたものなので、ビジネスの世界に深入りすることが生理的・思想的に無理なタイプの人文系インテリに対しては最初からNOT FOR YOUなのだと思う。そういう人たちのためにこれがあるのだ。
罪と罰と赦し
論点6:勧善懲悪エンドにならなかったこと
なんでプロスペラやデリングや四魔女が生き残ってるんだよという不満も多く見られたが、これも小林監督のインタビューに答えが書かれている。
「でも昨今ではSNSで雑多な価値観が氾濫しすぎて、物事のよしあしの共有が難しくなってきました。そうなると司法から外れた主観的な正義や制裁行為が横行しはじめます。そんな時代において何か一度でも罪を犯した人間は、ゼロサムで否応なしに司法的な処罰以上の罰≒魔女狩りや死を受けなくてはいけないのか、と。それは非常に怖いわけです」
「だから、罰せられるべき人間が罰せられていないように見えて、そこに憤りを覚える人は絶対にいるだろうし、物語のセオリーからはずす以上、賛否分かれても仕方がないかなと。それでも、デリングやプロスペラの罪を死で償って終わりにはしたくなかった」
「そして、「生きづらさ」の救済と罪の償い方に加えてもうひとつ、シェイクスピアの戯曲「テンペスト」で主人公プロスペローが見せた「赦し」を描きたかったんです」(前掲書5ページ)
監督がそういうものを作りたかった以上、わかりやすいヴィランの爆発四散で終わらなかったことに文句をつけても「じゃあダブルオー見てください。あれはわかりやすいですよ」で終わりである。いや、それ以前に勧善懲悪ヴィラン爆発四散エンドをガンダムに求める方がお門違いだろう。オルフェンズもUCものもほぼ全てモヤモヤエンドなのだから。修復的司法のプロセスに踏み込んだ「水星の魔女」に我々は進化を見た方が良い。
魔女というキーワード
論点7:ガンダムと「魔女」と「呪い」
小林監督は「水星の魔女」におけるガンダムをこのように定義している(再掲)。
「「魔女=異端者、マイノリティ」の側のガンダムとそれを取り巻くキャラクターたちに、今の人たちが抱えているいろいろな「生きづらさ」を重ねて、その「生きづらさ」をどう克服するのか、どう救済するのか」
実際、「水星の魔女」世界ではガンダム(GUND技術をモビルスーツ制御に使ったもの)は禁忌とされている。だがその一方で各社とも秘密裏にガンダムを開発している。
表6:水星の魔女に登場したガンダムたちと「呪い」
| 機種名 | 製造 | 動向 | 呪い |
|---|---|---|---|
| エアリアル | シンセイ開発公社 | スレッタの乗機としてアスティカシア高専に持ち込まれ、パーメットスコアを上げることでクワイエットゼロの中枢として稼働できる機体へと変貌していった。最終的にはスレッタとエリクトによってILTSオーバーライドに使用されたガンダム4機のうち1機となった。ILTSオーバーライド後に消滅。 | スレッタはシーズン1ラストでエアリアルを使ってテロリストを殺してしまう。ミオリネはエアリアルがきっかけでクイーンハーバー事件の当事者となる。 |
| ルブリス・ウル | オックス・アース社 | 宇宙議会連合が密かに存続させたオックス・アースがルブリスを元に開発。地球の武装組織であるフォルドの夜明けに秘密裏に供給され、ソフィが使用。エアリアルを深追いしたソフィがエリクトに殺害されることに。 | パイロットは死亡。 |
| ルブリス・ソーン | オックス・アース社 | 宇宙議会連合が密かに存続させたオックス・アースがルブリスを元に開発。地球の武装組織であるフォルドの夜明けに秘密裏に供給され、ノレアが使用。暴走したノレアがアスティカシア高専キャンパスを破壊しようとしてドミニコス隊に撃破される。 | パイロットは死亡。 |
| ファラクト | ペイル・テクノロジーズ社 | 四魔女が強化人士を使った研究機として開発させた。エラン4号がこれでエアリアルに挑み敗北。5号に継承。5号はのらりくらり戦術でその後の戦いを生き延び、最終的にはスレッタとエリクトによってILTSオーバーライドに使用されたガンダム4機のうち1機となった。ILTSオーバーライド後に消滅。 | エラン4号は抹殺される。5号は生き延びるがノレアを失う。 |
| シュバルゼッテ | ジェターク・ヘビー・マシーナリー社 | プロスペラと裏で手を握ったヴィム・ジェタークがシンセーの技術供与で開発。暴走したラウダがグエルとの兄弟喧嘩に使用。最終的にはスレッタとエリクトによってILTSオーバーライドに使用されたガンダム4機のうち1機となった。ILTSオーバーライド後に消滅。 | ラウダは最愛の兄を危うく殺しそうになる。 |
| キャリバーン | オックス・アース社 | ヴァナディース事変以前にオリジナルのルブリスと同時開発。データストーム対策が一切施されていない機体。クワイエットゼロ戦でスレッタが搭乗して改修型エアリアルと互角に戦った。最終的にはスレッタとエリクトによってILTSオーバーライドに使用されたガンダム4機のうち1機となった。ILTSオーバーライド後に消滅。 | スレッタは身障者となる。 |
こうしてみると、たしかにガンダムに乗った人々の大半は大きな喪失を被っている。そんな中でなんとか呪いから無傷で脱出できたのはラウダだけだった。ラウダが引き返せたのは兄グエルの兄弟愛とジェターク寮の仲間フェルシーの同胞愛。エアリアルとともに消えるはずだったエリクトとプロスペラを救ったのもスレッタの家族愛。身障者となったスレッタを支え、回復させたのはミオリネの夫婦愛やアスティカシア高専の仲間たちの同窓愛だった。
「生きづらさ」の果てに禁忌であるガンダムに乗り、皆、何かを失う。しかしそのうち一部は愛によって呪いから救い出される。 YOASOBIのAYASEは(おそらく)そのプロセスを「祝福」と解釈した。
――原作小説はもちろん、作品全体を通して“呪い”や“呪縛”といったキーワードが連想できますよね。そこに対して“祝福”というアンサーを出した。このあたりのコンセプトはどう組み立てていったんですか?
Ayase:最初はざっくり「呪いの対義語ってなんだろう」と考えていたんですよ。それが“祝う”になるのかどうかは分からないけど、小説や資料を読ませていただくなかで、物語の中でいろんな応援、エールが飛び交っていくだろうし、だからこそ呪いが際立つだろうなとも感じて。僕、タイトルっていつも最後に悩むんですけど、今回は珍しく先に決まりましたね。
最終話のサブタイトルがこの曲の歌詞から取られ、またエンディングでも「祝福」が流れたことから考えて、「呪い」が反転したものが「祝福」という考え方は「水星の魔女」においてオフィシャルなものとして採用されたと解釈しても良さそうだ。
さて、実証史学の分野では西洋のウィッチクラフトは惚れ薬や媚薬や失せ物探し、呪詛返しのようなある種のエブリデイ・マジックであったと考えられており、それらを悪魔と結びつけて取り締まることが裁判官や異端審問官などの官僚たちの業績稼ぎとなったという構造が指摘されている。さらにこの構造に拍車をかけたのが私怨や嫉妬による密告や誣告であった。また、西ヨーロッパが魔女を禁忌とするようになっていたプロセスにも段階があり、古代から一貫して魔女が禁忌だったわけでもない。政治家、官僚、民衆の様々な思惑が絡み合って中世末から近世にかけての魔女裁判や魔女狩りが盛り上がり、そして衰退していった(度会好一『魔女幻想:呪術から読み解くヨーロッパ』中公新書、1999年による)。
そうした「魔女」の歴史をおそらく小林監督は一通りはリサーチしたのだろう(ブルーレイ最終巻封入ブックレットのインタビューではソフィとノレアはセイラム魔女裁判事件に関わった二人の女性がモデルであると語っている)。それ自体、メリットもデメリットもあるGUND技術が社会的に禁忌とされていき、そして社会的に禁忌とされたことでガンダムが関わる人々に実際に不幸をもたらすものになっていった構造は、「魔女」「異端」というキーワードを上手く「ガンダム」の物語に落とし込んでいると感じる。
ここで問題となるのは、学術的で実証的な魔女研究に制度上、隣接する形でフェミニズムの領域での魔女論というものが存在しているということだ。制度上、隣接するとは、必ずしも実証的ではない女性学も今日、大学や学問という制度の中には存在しているということである(それが直ちに非難されるべきと言いたいわけではない)。
そして、フェミニズム系の魔女論、特にマルクス主義系フェミニズムの魔女論では魔女は男性や家父長制による女性の抑圧・弾圧の一形態であると考えられている。
「水星の魔女」を「魔女」というキーワードから読み解く際の混乱の原因はここにある。
フェミニズム系の魔女論と「少女革命ウテナ」において「魔女」とされた姫宮アンシーを切り口として「水星の魔女」を読み解こうとすれば、親世代の家父長制との間での微温的な結末に至った「水星の魔女」は、腰砕けのフェミニズム・アニメに見えるかもしれない(ただし、後述の小川公代によるフェミニズム系水星の魔女論がそのような議論になっていないことは指摘しておく)。
だが、「水星の魔女」がフェミニズム系魔女論に依拠したと信じるに足る資料を私はまだ発見できていない。もちろん「水星の魔女」にはフェミニズム的要素も含まれているはずだが、それが全てではないであろう。本稿前半でも紹介したインタビューで小林監督は魔女を「異端」として捉えようとしている。
「この場合の「魔女」は童話やおとぎ話の「魔法使い」ではなく、宗教史における「異端者」、弾圧される側、糾弾される側であるという発想から考えていきました」
この文言を見る限りでは、「水星の魔女」における「魔女」概念を読み解く際にマルクス主義の影響が強いフェミニズム系の魔女論しか見ないことを正当化できる理由は無さそうである。
| 欧米史学系魔女論 | フェミニズム系魔女論 | |
|---|---|---|
| 魔女とは何か | 「外的な道具や技術を必ずしも必要とせず、悪魔との契約によって授かった力や、凶眼や舌先などの神秘的な力によって、人に害悪を及ぼすと考えられた人々」(度会前掲書、8ページ) | 家父長制により抑圧された女性たちの象徴 |
| 魔女とされた人々のジェンダー | 男女とも存在 | 女 |
小川公代による論考については以前にも指摘したが、歴史学系の魔女研究を参照せずにフェミニズム系の魔女論(歴史学系からは史実との乖離を指摘されている)だけを用いていること、また「水星の魔女」制作陣や声優陣のインタビューを一切参照していないこと、他のガンダム作品群についてあまり丁寧に見ていないのではとも思える議論が行われていること(作中で登場人物が「人を殺すこと」について論じているということから小川は「水星の魔女」を彼女の研究テーマであるケアのフェミニズムを描いた作品であると主張するが、作中で登場人物が戦争や「人を殺すこと」について議論するガンダム作品は非常に多いのではないだろうか)などから、実証研究と文芸批評のアプローチの違いを私は感じる。小川の論も興味深いことは事実だが。
おわりに
本稿で詳しく見たように「機動戦士ガンダム 水星の魔女」は丁寧で誠実に作られたアニメ作品であり、そこには多種多様な論点が込められている。また、「水星の魔女」は本稿において指摘したように100億円単位の売上がある知財であり、それが展開される領域は基幹商品であるガンプラだけではなく極めて多岐に渡る。
そして今、「水星の魔女」のようなアニメを論じるのであれば卒業論文レベルでもアニメ作品だけを分析対象としないのは常識に近い。各種グッズもイベントもファンコミュニティもタイアップ商品も分析対象だ。すなわち、伝統的な文芸批評や映画批評や演劇批評のように小説や映画や劇という対象メディアだけを見るような構えでの分析・批評・研究は(やるなとは言わないが)その射程に強烈な制約があるということだ。巨額の資金が投入され、膨大な数のステークホルダーとクリエイターが関わり、膨大なメディアへと展開される現代の巨大IPの制作・流通・消費の構造や状況を無視して、まるで脚本家の大河内一楼が単独で全てを考えたかのような想定で「水星の魔女」を論じることは、知的には誠実さや丁寧さを欠く行為だ。
残念なことに、これまでの「水星の魔女」論は上記の観点を欠く文芸批評系のグリーヴァンス・スタディー的チェリーピッキングによる搾取のような作品言及が多かったと私は考えるが、今後、グリーヴァンス・スタディー以外の論者も「水星の魔女」論に加わり、実証的社会学や経営学なども加わったより幅広い観点から、一次資料を丁寧に確認した議論と研究が進むことを強く願う。













