今更ながらに立ち寄った図書館で小説新調のファンタジーノベル大賞発表号を手に取り、やはり受賞させるのは時代小説なのねと苦笑いして受賞作は読まずに(興味無いのだよ時代小説には)、森見登美彦と恩田陸の選考委員退任記念対談だけ見た。


恩田陸は最後まで「世界観やキャラクターを描こうとするな」という、ファンタジー小説に関しては極めて偏った(そして古今東西のファンタジー小説の主流においても支流においても妥当しないような)主張を繰り返していたので、この人を審査員にしていた小説新潮のファンタジーの理解度の低さをしみじみ味わった。恩田陸はいちおう、ファンノベ大賞最終に残った「六番目の小夜子」でデビュー、「常野物語」がファンタジー的実績ということなんだろうけども。
ファンタジーでキャラ小説を書いて何が悪い。世界観に全振りして何が悪い。だいたい『後宮小説』はキャラ小説だし、2000年代のファンタジーノベル大賞受賞作は世界観全振りものが多かったじゃないか(笑)
森見登美彦は自分のストライクゾーンが狭い(大意)と言っていたのだが(私から見てもそう思う)、この人が審査員をやっていた2017-2025の間に受賞させた新人作家でその後、ファンタジー小説作家として頑張ってやっているという人がどれだけいるかというと、かろうじて高丘哲次は2作目もそれっぽい長編を出したからギリギリセーフ、あとはどうなのよと思った。大塚己愛は体調不良もあったらしいがそれにしても活動年数を考えると極めて物足りない。デビュー直後に一瞬パーッと売れてそこまで、という流れになりつつある(頑張って盛り返して欲しい)。鳴り物入りデビューの柿村将彦は受賞から9年経ってまだ『隣のずこずこ』しか出していない。
デビュー時には大森望のこんな紹介文もあったのだが、森見と恩田の対談で柿村はまだ2作目を出していないのかと笑われている。申し訳ないが笑われても仕方がないだろう。世の中には何度新人賞で落ちても石にかじりつくようにして書き続けている人が万単位でいるのだ。
その最初の受賞作となった柿村将彦『隣のずこずこ』は、3人の選考委員(この賞出身の恩田陸、森見登美彦と、漫画家の萩尾望都)がこぞって絶賛した、すばらしく個性的なモダン・ファンタジーだ。
新人賞のパフォーマンスとして素晴らしいとは全く言えないだろう。逆に「え? こんだけ?」とは言いたくなる。
しかも新潮社、自前のファンタジーノベル大賞作家を育てるよりも文藝春秋社で八咫烏シリーズを大ヒットさせた阿部智里を連れてきて特設サイトつきの新シリーズ立ち上げなどやっているという、何なのこれ。自分とこの2軍やユースチームから使える選手が出てこないんでよそのチームのエースを引き抜いてるみたいなことでしょ。ね。
角川ビーンズ小説大賞出身の三川みりが新潮NEXで「龍ノ国幻想」書いてるとかも。どうなのそれ。それもいいけどホームグロウンの大塚己愛や高丘哲次を育成すべきでしょ。
毎年ずいぶんと結構な講評を掲載しておられたお二人ではあるが、審査員として発掘した作家陣のパフォーマンスはすなわちお二人のファンタジー小説審査員としての力量を推し量る何かになってはいないだろうか?
羊谷くんのこの言葉ね。
〈門番〉のあり方は贔屓目にみても大変だ。まず、あるジャンルにたいしてオーナーシップをもち、個人の好き嫌いにかかわらず、そのジャンルのあたらしい重要作品にふれなくてはならない。くわえて、そのジャンルの良さ(あるいは、本質)とはなんなのかを隣接領域とのちがいから考え抜き、人気作をはじめ、さまざまな作品を世評に左右されずに評することがもとめられる。それは、流行り廃りが個人の力ではままならないものである以上、ひとによっては「老害ムーブ」と非難されるものであり、ほとんど負け戦のようなものかもしれない。
しかし、「もう/まだ、いない」ものへの責任として、特定のジャンルを美的に秩序立てるという批評の試みは、ジャンル愛好者の誇りの問題であり、未来の愛好者のための導きの問題だ。物事の流行りには外在的要因が大きいからこそ、人気の浮き沈みを越えた内在的な「良さ」を言葉に遺し、より良い作品を少しでも語り継ぐ試みほど尊いものはない。
そういう覚悟や気迫でファンタジー小説に向き合っている人たちがやっている賞じゃないという答え合わせを毎年更新している。そんな感想です。
ファンノベ大賞はいいかげんに20世紀末の栄光を取り戻そうとするのを止めた方が良い。外的環境が変わったのだから30年前に売れたものと同じコンセプトのものを商品化したって売れないぞ。


エンタメとしてのファンタジー小説がこれだけ売れている中で、その市場の一番大きいところを全部取り除いてわけのわからない外し狙いの純文学崩れや中華ものや時代小説ばかり最終に上げては商業的にズッコケる。ほんと「後宮小説」「僕僕先生」「しゃばけ」の成功体験をいつ忘れるんだ。
少なくとも出版ビジネスとしてのファンタジーを軌道に乗せるのであれば王道は「世界観を構築し、魅力的なキャラをそこに投下する」である。トールキンもル・グウィンもムアコックも栗本薫も上橋菜穂子もそれをしている。新潮社がファンノベ大賞出身者を育てられないのは、ファンタジー小説を売り、売ることで書き続けるための基本中の基本である「魅力的な世界観、魅力的なキャラクター」に取り組む書き手を2次選考と最終選考で徹底的に排除してきたからだ。
それならそれで新潮社が考えるファンタジーは世界観とキャラではないと宣言すれば良いのだが、一方で他社が育てた「世界観とキャラ」の達人たちを連れてきてシリーズを立ち上げているのだから支離滅裂になるのだ。
選考委員が交替したのはいい機会だ。「世界観とキャラ」をきちんと作れる人を最終選考に上げて、どんどんデビューさせていって欲しい。ハヤカワSFのように「大賞じゃなくても特別賞扱いでとりあえずデビューさせる」「他社が落としたものでもチャンスを与える」のスタンスが現代の正解だ。
たとえば土形亜理はポプラ社小説賞の最終で『みずうみの満ちるまで』を落とされているが、それをハヤカワSFに出し直して特別賞扱いでデビュー。少なくとも赤字にはならない程度には売れているように見える。それで良いのだ。
『みずうみの満ちるまで』土形亜理
気候の変動で地球の大部分が居住不可能となる一方で、意識をコンピュータにアップロードする技術によって富裕層が死を克服した未来。次世代に財産を寄付し死を選ぶ人たちを看取る場「ヘヴンズガーデン」でコーディネーターを務めるエルムは、施設の創設者であるロボットの三毛猫や訪れる客、親友となった女性リンクスとの日々のなかで、この世界で生きるべき意味を問い、ある決断を下す――。
現代社会が極まった先にないとは決して言えない世界を舞台に、人間の残酷さや愚かさをどう受け止め、いかに生きるべきかといった、著者の深い危機感と問題提起を感じさせる静謐で知的な作品。強いメッセージ性を感じさせるが、そこを踏まえたうえで読者を最後まで引き込み、エンターテイメントとして面白がらせる形にまで昇華させられているかという点に課題が残り、受賞には至らなかった。








