北田暁大とユミソンの論争に見るマネジメントの崩壊と、その先にあったであろう奇怪なる何か

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北田暁大に向けられたmetooについての、当時の関係者からのコメントが色々と出てきたので、目を通している。

なお、北田暁大と井上文雄について書いた(告発側である)ユミソンの文章については、読んだ限りでは、草の根組織を拡大しようとした時に非常によくあるマネジメント崩壊とコミュニケーションの齟齬、そして相互不信からの泥仕合という現象を描写しているように見えた。

(他の関係者が発表したテクスト群も、いずれも泥仕合とディスコミュニケーションの凄まじさを物語っている)

草の根組織には発足以来の、表には出てこないしがらみや思惑が山のように埋め込まれていることがほとんどだ。言ってみれば仕様書の無い継ぎ接ぎで、どこをいじるとどこに影響が出るのかも外部からは全くわからないモンスター状態になっていて不思議ではない。スパゲッティコード地獄のようなものだ。

そんなところに1000万円も助成金が入れば、運営が崩壊しない方が珍しい。

北田や井上はそうした奇怪な組織構造を整理して、わかりやすい構造にリストラしようとしたのかもしれないが、(多分)ステークホルダーごとに特例措置が山のようにくっついていて、ユミソン以外には全容を把握出来ないような怪物をリストラするのは、非現実的だろう(当時はコンマリするという言葉は無かったが、コンマリすることも同様に非現実的)。私の経験から推測するに、1000万円のカネで何かやることになっていて、既に走り出していて、本番2ヶ月前という時点で、ほとんど1人で事務局機能を切り盛りしているような状態であれば、その人物と周辺は阿鼻叫喚の混沌になっている可能性が極めて高い。その段階で「ちょっとこれ一度立ち止まって整理しませんか」なんて提案しようものなら、完全に常人のオペレーションの限界を越えてしまうだろう。心身の限界を超えるのだ。その先にあるのは理屈では何も解決しない世界である。

つまり、これはそもそも手を出してはいけない案件だったのではないかと思う。

そして、北田らから見れば理解も出来なければ許容も出来ないような奇怪で混乱した何かであっても、それを始めた人々にとっては、外からは見えないところに一貫性や筋のようなものが存在していたのだろう。もちろん、意味も意義も、現代アート関係者が好んで使う用語であるところの「リアリティ」も。

この断裂は、繋ぐことが不可能だと自分は思っている。そのために要するコミュニケーションコストが莫大になりすぎるからだ。

それでもなお、関わりを持とうというときに、せめて出来ることがあるとすれば、失敗し崩壊することが最初からわかっているものを敢えてやってみせて、その崩壊のありようを可視化すること、くらいだろうか?

(話は脇に少し逸れるが、こういう話は地域アートに限ったものではない。個人商店が法人成りした組織でも、北田らが経験したようなことは日常茶飯事である。むしろそちらの方が数としては遥かに多いだろう)

個人的には、ビシッと筋の通った正統派のアートフェスを企画運営出来ない人たちが、それでもなお何かそれぞれの考えた自分なりのアートフェスをやろうとして、その都度、二度と再現出来ないような(またやろうぜという声が出ないから)何かを現出させるというプロセスに、独特の味わいや侘び寂びを感じ始めている。

TOKYO ART FLOWしかり、津田大介のあいちトリエンナーレ然り。そしてこのアラフドアートアニュアルというものも、どうやらミュージックフェスにピボットして続いているらしい。

それはそれで、大いにアリかと思う。

注:本記事について以下のようなコメントがあったので、一応紹介しておく。

これだけでは真偽の判断は筆者には出来かねるので、この部分について信頼出来る情報をお持ちの方はsdtricks@outlook.jpまでご連絡下さい。

その後、アラフドミュージックはアラフドアートアニュアルの影響を受けているが、予算も組織も別のものと、主催者の方よりご連絡いただきました

2019/9/10 少しだけ追記

稲葉振一郎氏にシェアしていただいたからなのか、随分PVが伸びているので、少しだけ補足しておきます。

仮にアートフェス(のようなもの)が混乱の中で終わり、その混乱の苦い記憶ゆえにその次が無かったとしても、それが何らかの形でそれに関わった人々の、その後の人生において、何か新しい良いもの、善きもの、好ましい場所へとたどり着くきっかけになるのであれば、それはもう大変に上等な成果であると言い切って良いと私は思っています。

私の身近な例であれば、「センセーが講義で英語のテキストばかり使っていたので英語への恐怖感が無くなったので、仕事で英語の資料を大量に読むのも苦になりません。ほんと助かってます」というような。英語のテキストばかり使っていたのは、日本語の良いテキストが無かったからであって、英語が怖くなくなったなんてのは全然本筋じゃないけど、でも自分の講義が彼・彼女らの人生のどこかで何かの形で役に立ってくれていれば、それでもう充分かなと思うのです。我々の人生そのものがスパゲッティコードなんですからね。どっちみち。

だから、本番以前にマネジメントやキュレーションが崩壊していたとしても、それで最後まで行けそうならば、そのまま行かせてあげちゃうのが良い場合も多いと思うよ、ということです。

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